2017年10月22日

『ユキエ』撮りたい映画を撮った松井久子監督デビュー作

 書こう書こうと思って、なかなか書けなかったのですが、
 観たのが9月2日でしたから、まだ記憶はある程度定かと思います。

 私のブログ指南をしてくれている友人が、
 彼の尊敬している芥川賞作家の吉目木晴彦さんのトークショーと、
 芥川賞受賞作『寂寥郊野』(1993)を映画化した『ユキエ』(1997)の上映会が、
 9月2日に小田原であるので行きませんか、と誘ってくれたのがきっかけでした。

 小田急ロマンスカーでのんびりとした近郊の旅ができ、
 映画とトークショーを楽しみ、帰りは小田原で軽く一杯呑んで
 とてもよい一日を過ごすことができました。

 なお、吉目木晴彦さんは、現在、
 私が広島大学の学生の頃に、クラブの友人達の憧れの女子大であった、
 安田女子大学文学部の教授をされていますので、
 今回の記事では、敬意を籠めて吉目木先生と呼ばせていただきました。

******

 友人から話を聞いていて一度は読んでおこうと思いながら、結局、
 原作は読まないままこの日を迎えてしまいました。

 当日は、『ユキエ』を監督した松井久子さんと吉目木先生の
 トークショーでしたが、松井監督のお名前も初めて伺い、
 これまでに監督された映画も見ておらず、
 従って『ユキエ』は全く予備知識なしで観ることになりました。

 この映画とトークショーの催しは、
 松井久子監督の映画に共感してきた主催者(ハッピーまな鶴プロジェクト)と、
 小田原が吉目木先生の生まれ故郷であるという縁繋がりの市役所文化政策課とが、
 意気統合したところで行った共同事業であったようで、
 お役所的な仰々しさのないとてもファミリアな雰囲気でした。

 パンフレットを引用しましたので雰囲気を感じ取ってみて下さい。
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《ストーリー》

 太平洋戦争で日本が負けた終戦後に、
 日本に進駐した米軍兵であったリチャードと看護婦であったユキエは、
 縁あって結ばれ、ルイジアナに家庭を築きました。

 映画は、リチャードとユキエが、高校生になった二人の息子と共に、
 幸せな生活を送っていた1970年代の描写から始まります。

 20年後の現在(映画が製作された1990年代)、
 ユキエに記憶障害の兆候となるおかしな行動が目立ちはじめ、
 職をなくし失意の中にあるリチャードは、愛する妻を心配し、
 既に家を離れて独立した息子達も、家族や許嫁を連れて、
 ルイジアナの実家を訪問した折にその事実を知り、
 心乱れます。

 ユキエ自身も、自分に生じた異変に苦しむ中、
 リチャードとユキエの互いの愛と絆への信頼は揺るがず、
 静かで愛情深い母親を巡って、父親と対立する息子達も、
 それぞれの思いでユキエを支えます。

 そうした波乱含みの日常が過ぎて、結局、
 ユキエは自分だけの世界に閉じこもりきりとなるのですが、
 自宅のベランダの安楽椅子に座るそんなユキエを、
 リチャードも椅子に座って見つめ続けている、というところでエンドマークがでます。

《映画》

 映画は、フラッシュバックで断片的に描かれる
 ユキエの若い頃の記憶の中の日本以外は、全編が、
 ルイジアナ(ニューオリンズを擁する米国南部の州)の郊外を舞台としています。

 ユキエは四国(山陰だったかな?)の田舎育ちで、
 リチャードとの結婚で家を勘当されており、
 ルイジアナでの日本人女性たちとの交流以外は天涯孤独の境遇です。

 息子達以外の家族関係が全く描かれないので、
 具体的にはわからないのですが、リチャードも、
 ロートルの元軍人であることに経済的・人脈的な利益がほとんど何もない、
 米国人らしい壮絶に孤独な境遇です。

 二人が深い深い愛情で結ばれ、
 ともかくも互いがかけがえのない存在であることだけは
 ストレートに観る側に伝わってきます。

 リチャードが、夜中に、
 隣で寝ているはずのユキエがいなくなったのに気づき、探し回った挙句、
 真っ暗な沼の畔で、帰れなくなって佇んでるユキエを見つけ、
 駆け寄って抱きしめる場面などは、
 最近、涙腺がとみに弱っている私は、涙がこらえきれず、
 友人が隣に座っている手前、とても困ってしまいました。

 映画が終わった後で、隣の友人に、
 これはよくできたラブ・ストーリーだ、と感想を言ったのですが、
 映画の内容をよく知っている社会派の友人は意表を突かれたようでした。
 
倍賞美津子

 ユキエを演じたのは、映画制作時に52歳だった倍賞美津子さん。

 倍賞美津子さんは、倍賞千恵子さんの妹で、1970代年には、私にとっては、
 倍賞千恵子さんが、『寅さんシリーズ』の妹さくら役で人気絶頂で、
 マドンナ女優に引けをとらない清純・清楚な美人女優のイメージであったのに対して、
 倍賞美津子さんは、その『寅さんシリーズ』と2本立てで併映された
 松竹主演デビュー作『喜劇 女は度胸』(1969)の印象が強烈な
 肉食系のグラマー女優というイメージでした。

 この映画の冒頭の1970年頃は、私にとっては、
 そんな倍賞姉妹が活躍した、『寅さんシリーズ』と併映の喜劇を楽しみながら
 高校生活をしていた、おめでたき時代でありました。

 倍賞美津子さんは、その後も、アントニオ猪木と結婚したり、
 ムンムンとする色気が充満した硬派の日本を代表する女優といえます。

 この映画では、家族が日本語に堪能ではなく、
 彼女も英語がそう達者ではないという設定で、さらに、
 記憶障害(アルツハイマー)に侵され自分の世界に籠っていく
 という静かな役どころであり、
 163cmと日本では大柄な倍賞美津子さんも、
 米国人の夫と息子に囲まれると、とても小柄で、
 そして、同年代の松井監督がこの上なく彼女を美しく撮るので、
 知的で物静かでかわいらしい、私がかつてみたことがない倍賞美津子さんでした。

 ユキエがルイジアナで唯一心を許す日本人女性の友人を、
 この映画と同じ頃公開された『Shall we ダンス?』で、
 小粋なダンスのおばあちゃん先生をしていた草村礼子さんが演じています。

《吉目木先生のお話》

 映画終了後のトークショーで、
 原作者の吉目木先生の話を聞きましたら、原作の『寂寥郊野』は、
 1960年代後半に実際にルイジアナで生活をしていた吉目木先生が目にした
 戦争花嫁を題材にしていたということがわかりました。

 敗戦後に駐留米国兵と結婚して米国に移住した日本女性が、
 水商売関係を中心に多くいた、という話は、
 私も母親からよく聞いていましたが、
 ここでその話を聞くことになるとは思いませんでした。
 
 映画では、ユキエを診てもらった病院で、
 リチャードが、医者に二人の経緯をチラッと話しただけだったので、
 そこまで思いを馳せることができませんでしたが、
 映画『赤い天使』(1966)などで、
 従軍看護婦も大変な目にあったことがを描かれており、
 ユキエも相当に大変な過去があったように思います。

 但し、戦争花嫁は、
 戦後の日米の外交・経済交流において、誇りをもって懸け橋となり、
 他の国の戦争花嫁も含めた世界的な連帯を今でももっていて、
 彼女たちの子供、孫の世代がこの連帯の中心になりつつある、
 ということで、吉目木先生から、私の戦後の認識が現代に繋がり、
 目から鱗が取れたようなの貴重なお話を伺うことができました。

松井監督

 松井監督は、お若い頃はどれほどであったことか、と思わせるような、
 今でも大変に美しい女性でした。

 パンフレットによれば、雑誌ライター、俳優のマネージャー、
 テレビドラマのプロデューサーを経て、『ユキエ』で映画監督デビュー
 と、女優をしていても不思議ではない美貌と相まって、
 天に二物も三物も与えられている人がいるのを目の当たりにした気分でした。

 その松井監督が、トークショーの開始早々に「この映画はラブ・ストーリーです」
 と話され、隣りの友人が「柴先生が言ったとおりでしでしたね!」
 と驚いておりました。

******

 「私にも写せます」の頃の8mm映画全盛時の1975年頃には、
 私も8mm映画を撮っていたので、先輩?として言わせてもらえば、
 映画を撮ってみたかったという松井監督の気持ちはよくわかります。

 記号論的な話になりますが、
 8mm映画を生まれて初めて撮る人の出来上がったフィルムは面白いです。

 男が初めて撮ると、自分の好きな映画のように撮ります。

 私の大学の同期で、黒澤明と志村僑と宮口精二が好きな、
 要は『七人の侍』(1954)フリークであった男が、
 普段着のズボンのベルトに棒を差して歩き、
 自転車に乗って棒を振りかざして襲ってくる野伏せりとチャンバラする
 という世にもバカバカしい5分程度の8mm映画を、
 『剣鬼一人旅』と銘打ち、フィルムロールを大事そうに抱えていました。

 しかし、
 つっつと歩く姿が『七人の侍』の久蔵(宮口精二)に、
 棒の切っ先を地面すれすれに這わせながら中腰で走る姿が、
 『七人の侍』の勘兵衛(志村喬)にそっくりで、
 やはり人間は夢を持って何か実現させることが重要だと感心してしまった、
 あまり残しておきたくもなかった遠い記憶があります。

 一方で、普段あまり映画を観ない女性が初めて8mm映画を撮ると、
 視線が定まらない船酔いしたような映像が出来上がります。

 映画というのは、自分で何かを撮りたいという意志がないと、
 出来上がった映像が何とも珍妙なものになるという、
 記号論的な面白さがあります。

 そんな女性が、撮影に慣れて自分で撮りたいと思うものを取り出すと、
 男ならばまず撮れないであろう感性豊かな映像が出来上がるときがあり、
 感動したことがある、というのもはるか昔の遠い記憶です。

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 『ユキエ』の冒頭で、
 ユキエが丹精込めて作り上げたであろうルイジアナの自宅のキッチンを
 カメラが舐めるように移動撮影する場面があります。

 ユキエの想いが籠った、ソフトフォーカスがかかって、
 淡く美しい色彩の食器や器具が整頓されている佇まいが、
 見る側に提示されます。

 とても素人臭い映像と思いましたが、
 この映像は、松井監督が初めて撮った映画で本当に撮りたかったのだろうなあ、
 と遠い記憶がよみがえるような気持ちがしました。

 このような女性の気持ちが籠った映像は、
 男の監督は撮ろうとしないし、撮れないと思います。

 黒澤明監督であれば、生活感を出そうと、実際に皿を使い込んで汚れをつける、
 というようなことになりかねません。

 松井監督も、若い男の助監督をこき使って、
 食器と器具を納得いくまで並べ替えたと思いますが、
 映画監督はそれでいいいのです。

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 原作はおそらく、思索的で内省的な描写が主体になるであろうし、
 今回の主催者もそうでしたが、映画に期待する側は、
 戦争花嫁、アルツハイマー、人種差別などの社会的テーマに焦点を当てがちですが、
 松井監督はほとんどラブ・ストーリーの部分だけを取り出しており、
 ビジュアルに徹して、
 社会的なテーマはあくまで二人の愛情の純化を際立たせるための背景として
 扱っているように見えます。

 松井監督が、本来は社会的現実と切り結ぶべきTVのプロデューサーだからこそ、
 初めて社会的現実を背景として客観化できたのであり、
 映画畑にどっぷり浸っていた映画監督は、このような背景化はぜずに、
 もっと背景自体に焦点を当てておどろおどろしいものにするように思います。

 松井監督が話していましたが、この映画を撮った頃は、
 話題になる恋愛映画といえば『失楽園』(1997)くらいで、
 女性が見たいと思う映画がなかったと嘆いておられましたが、
 全くその通りと思います。

 映画も男の世界で、特に男尊女卑の傾向がある団塊の世代の代表でもある
 『失楽園』の森田芳光監督などは(好きな映画監督ではあるのですが)、
 あまり品の良いとは言えない女性の描き方しかできず、
 松井監督の仰ることはよくわかります。

 ユキエの夫であるリチャードは、
 女性が言って欲しいこと・して欲しいことを、全て言ってしてくれる、
 おそらく女性が理想とする男性として描かれています。

 過去にトラウマがありそうな元軍人で、
 一本気でありながら知的で、妻にどこまでも易しい、
 初老ながら二枚目であるという俳優を、
 いったいどこから見つけてくるのでしょうね。
 
 オーディションにはロバート・ボーンも来たというのに、
 ロバート・ボーンを採用しなくても、それ以上にピッタリの俳優を選ぶのですから、
 松井監督のプロデューサーとしての眼力は大したものです。

 有能な女性監督や女性プロデューサーが映画やTVドラマを制作すると、
 このような、女性に言って欲しいこと・して欲しいことを、
 全て言ってしてくれる、理想的な男性が登場してくる気がして仕方ありません。

 例えば、
 『マイ・インターン』(2015)のロバート・デ・ニーロや、
 『ドクター・クイン』(1993-1998)のクイン先生の夫になる最強の二枚目とかが
 典型です。

 こういった観点から、誰か、女性監督論をまとめてくれないかなと思うくらいです。

 吉目木先生は、松井監督に脚色は全てお任せしますと言っておられ、
 シナリオの新藤兼人さんも、松井監督が当初誰かに監督をさせようとしたのを、
 自分で撮りたい映画を撮れと背中を押してくれたとのことで、
 そしてこのような美しい映画を残すことが出来たと思えば、
 松井監督の周りにも、心だけは理想的な男性が多くいらしたのでありましょう。
 

《ミステリーとしての『ユキエ』》

 何と言っても、ユキエとリチャードが、何故深い愛情で結ばれるに至ったかは、
 『ユキエ』の最大のミステリーです。

 松井監督には、この時代の日本であるからこそ、
 『ユキエ』の最大のミステリーについて回答する映画を撮って欲しいと思います。

 駐留軍の米国軍人と日本人女性とが結婚して米国に移住したカップルは
 5万組に及ぶといわれています。

 戦勝国の米国軍人であれば、帰国して米国人女性と結婚することもできたでしょうに、
 何故、かくも多くの米国軍人が敗戦国の女性と恋に落ちて結婚するに至ったのか、
 について、ユキエとリチャードを通して描くことは、
 あの頃の前夜の雰囲気に生きる現代の若い日本人にとって、
 戦争というものを考えるよいきっかけになるのではないかと思うのです。

 新藤兼人さんが99歳まで現役監督をしていたことを考えると、
 松井監督はまだまだお若く、
 松井監督の同世代の時間だけはまだある団塊男達に金を出させて
 映画の資金を調達したらよいと思います。

 シナリオは、松井監督よりも一回りお若い、
 吉目木先生に是非お願いしたいと思います。
posted by Dausuke SHIBA at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2017年10月15日

ロス・プリモスと東京ロマンチカ

 先日(2017年10月5日)、
 「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」(以下「東京ロマンチカ」)
 のメインボーカルの三條正人さんが亡くなりましたね。

 もう8年前になる2009年に、東京ロマンチカの少し先輩になる
 「黒沢明とロス・プリモス」(以下「ロス・プリモス」)
 のメインボーカルの森聖二さんが亡くなっています。

《たそがれの銀座》

 私が生まれた頃から始まったと言われている高度経済成長時代が、
 東京オリンピックと新幹線開通した1964年を経て、
 ピークが続いていた1968年に、
 TVと近所の武蔵小山商店街のスピーカーから流れてきたのが、
 ロス・プリモスの『たそがれの銀座』でした。

 私は中学生でしたが、一回聴いて耳にこびりつき、
 今に至るもとても好きな曲となりました。

 『たそがれの銀座』は、
 地方から出て東京での生活と仕事に慣れてきたであろう、
 おそらく水商売で生計を立てている若い男が、
 銀座の華やかな風俗の中で恋と酒を知り、一丁前になるまでを、
 ボサノバが入った軽やかなメロディにのせて、
 銀座1丁目から8丁目までの数え唄にしている名曲です。

 『たそがれの銀座』がヒットしたのは、
 国内の道路舗装が隅々までいきわたり、
 雨の日にも、会社の帰りの男と女が、
 東京・横浜の繁華街に立ち寄って帰宅するまでに
 長靴を履かないで済むようになっていた時代といってよいでしょう。

 『たそがれの銀座』の少し前の
 『ラブユー東京』が大ヒットした1967年頃から、
 華やかな都会の中で楽しむ中産階級の若い男と女を主人公にした歌が
 様になってきたように思います
 (例えば『ブルーライトヨコハマ』(1968年)もその代表曲でしょう)。

 ちなみに、
 マクドナルドの第1号店が銀座にできたのが3年後の1971年です。

 『たそがれの銀座』の6年前に映画と歌でヒットした
 『銀座の恋の物語』(1962年)は、
 銀座のアパート(があったんですね)に住む若い男(石原裕次郎)と、
 戦争のトラウマが残る若い女(浅丘ルリ子)のラブストーリーで、
 まだまだ、高度経済成長下での地方から出てきた男女の物語
 とはいえなかったように思います。

******

 『たそがれの銀座』は、今聴いてもオシャレですが、
 当時、私が聞いたときには、ちょっとだけ時代がズレていた感じがしました。

 『たそがれの銀座』の第1番に、
  ♪ 一丁目の蛯ェ ためいきついて
  ♪ 二丁目の蛯ェ ささやいた

  第4番に、
  ♪ 数寄屋橋は きえても
  ♪ 銀座はのこる
  ♪ 柳とともに いつまでも

 とあるのですが、『たそがれの銀座』がヒットするほんの少し前に、
 銀座の蛯ヘ伐採されてしまっていたのでした。

 また、『たそがれの銀座』の第3番に、
  ♪ 三丁目のフユ子は 小唄が上手
  ♪ 四丁目のナツ子は ジャズが好き

 とあるのですが、いくらあの頃でも、
 小唄が上手な銀座の女は相当に古風で、私などイメージできなかったものです。

 作詞家の古木花江さん(星野哲郎又はその夫人といわれているようです)が、
 星野哲郎さんであれば、当代超一流の作詞家で、
 お若い頃は、当然に歌詞通り、日常を銀座で活躍されたでしょうから、
 柳に思い入れがあるのも当然で、小唄が上手な小粋な女もいたでしょうし、
 当時としても、『たそがれの銀座』の第4番にある
  ♪ 七丁目の酒場で おぼえたお酒
  ♪ 八丁目のクラブで 知った恋

 のようなことは、地方出の若い男にはまずありえないことですが、
 星野哲郎さんの若い頃がモデルとあれば百%納得です。
 
《ロス・プリモス》

 『たそがれの銀座』を歌っていたロス・プリモスは、
 当時のサラリーマンのガキにすぎない私からみれば、
 どこから見てもおじさん達の集まりでしたが、
 テカテカのポマードヘアと黒いスーツで統一され、
 ピカピカのエナメル靴を履き揃えた、
 ダンスホールかキャバレーの舞台から抜け出たような、
 とても怪しく胡散臭い、
 玄人としか形容のしようがない大人の世界の人達でした
 (森聖二が当時29歳、今の私より遥か年下というのは信じ難い)。

 ロス・プリモスは、『たそがれの銀座』の少し前に、
 今でもカラオケの定番として有名な『ラブユー東京』を大ヒットさせており、
 私はこちらもとても好きですが、
 『ラブユー東京』が、地方出の若い女が、
 七色の虹がきらめく憧れの東京で恋に夢中になっている様を歌い込んでいて、
 田舎臭さが無きにしも非ずで乗り切れなかったところ、
 『たそがれの銀座』のモダンさの方がピッタリ嵌ったという感じです。

《東京ロマンチカ》

 『小樽のひとよ』(1967年)は、
 『たそがれの銀座』と同時期にヒットした東京ロマンチカの名曲ですが、、
 私がTVで初めて聴いたときは、
 こんなアナクロな歌がなんでヒットするのかと思ったものです。

  ♪ 逢いたい気持ちが ままならぬ
  ♪ 北国の街は つめたく遠い
 で始まる、ベタでくさい歌詞を、これまた、
 戦前の映画雑誌から抜け出たような白面の古典的二枚目である三條正人が、
 透き通った高音で歌うのですから、こういう歌はこの現代にありえねぇ〜
 と思ったのですが、なんと、

 『君は心の妻だから』が立て続けにヒットして、これがまた、
  ♪ 愛しながらも さだめに負けて
  ♪ 別れたけれど こころはひとつ
 とさらに輪をかけた、ベタベタのくさい歌詞を、
 三條正人が切々と歌うのですから、
 この現代には理解できないことが起こるものだと思ったものです。

 『小樽のひとよ』は、
 小樽から東京に出て水商売で仕事をする二枚目の若い男が、
 故郷に一人残した恋人を想う歌ですが、
 故郷で女を泣かすだけ泣かせ、東京でも女を泣かせ続けた挙句に、
 結局はやっぱり故郷の女を想うというこの若い男は、
 三條正人にイメージがピッタリ重なってしまいます。

 曲のイントロをクラシックギターで一見真面目そうに爪弾く鶴岡雅義は、
 裏で三條正人を操る怪しい黒幕のように見える一方で、
 全員が、真っ白なスーツと白のエナメル靴で揃え、
 ロス・プリモスと正反対の清潔ぶりなのですが、
 グループ名が「東京ロマンチカ」とテカテカの字面と響きで、
 ロス・プリモスよりもかえって怪しい胡散臭さが増幅したものです。

《森聖二さんと三條正人さん》


 森聖二さんの柔らかいが輪郭の明瞭な歌声は女唄によく合い、
 ロス・プリモスは女唄が多く、
 『たそがれの銀座』はめずらしく男唄であったように思います。

 女唄のときは、森聖二さんの歌だけ聴くと、
 わけありの水商売の女を彷彿とするしかなく、
 これを男が歌っていると思うと気色の悪さが漂いそうにも思いますが、
 全くそうなっておらず、どれも品のよい名曲ばかりです。

 三條正人さんの透き通った高音は、女を想う若い男に合っており、
 東京ロマンチカは男唄が多かったように思います。

 そして『小樽のひとよ』も『君は心の妻だから』も、
 聴いているうちに、ドラマの世界に引き込まれる迫力があり、
 特に、大人になって、
 たとえ女たらしであっても純愛はありうる、
 女性は三條正人さんがたとえ本当に悪い人であっても好きになることがある、
 などということを知るようになってからは、
 やはり名曲であったということを再認識しています。

 両グループの歌の品が落ちないのは、
 森聖二さんと三條正人さんの半端でない圧倒的な歌唱力がなせる技で、
 バックコーラスの安定感とリーダーの確かな演奏技巧が絶妙にサポートして、
 グループ歌唱として極めて完成度が高いことに裏付けられているためと思います。

 東京のイメージが強烈な森聖二さんが大阪出身、
 北国のイメージが強烈な三條正人さんが滋賀出身というのも、
 両者のイメージが如何に演出によって喚起されていたのかがよくわかります。

 そして、森聖二さんも三條正人さんも、
 60代を過ぎても歌唱力が衰えておらず、名曲の多くを、
 当初のままに歌い続けることができたというのは驚異的で、
 プロ中のプロというしかありません。

 森聖二さんが亡くなったときに、東京ロマンチカが追悼として、
 ロス・プリモスのヒット曲を歌唱したことは知っていましたが、
 三條正人さんの『ラブユー東京』は聞いてみたかったです。

 ロス・プリモスと東京ロマンチカには、
 歌謡曲の楽しさ、大人の世界、そしてプロの何たるかを教えていただいたこと、
 本当に感謝申し上げます。

******

 三條正人さんのような、放っておくと悪い女の餌食になりそうな二枚目には、
 しっかりと掴んで離さない年上の美女が守っていることが多いように思います。

 三條正人さんの場合も、独立騒動のときに干されたりして、
 苦難の芸能人生を歩んだようですが、
 私も好きであった美人女優の香山美子さんが人生を共にしてくれました。

 香山美子さんに捨てられずに最後まで看取ってもらったのは、
 とても幸せなことであったと思います。

 三條正人さんの葬儀に出られた香山美子さんの写真を久々に拝見して、
 相変わらずお美しいので安心した次第です。
posted by Dausuke SHIBA at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ