2020年04月25日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ

 『新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか
 コロナ禍の下で、
 厚労省管轄の医療実務機関と文科省管轄の大学医学研究機関の協力関係が
 十分でないことがコロナ対策の実効を妨げる一因とも言われています。

 これはお役所事業の徹底した縦割・縄張意識に起因しますが、
 お役所事業である教育の分野でも、科目間の縦割・縄張が貫徹され、
 生徒が柔軟に理解することを妨げ、
 自分の頭で考えることができない日本人を再生産し続けている
 大きな原因の一つではないかと昔から思っています。

******、
 
 先の2回のブログ記事では、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文について、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)』では論文の内容を、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』では、
 論文の主テーマたる「自然を愛する心情を養う」ことを
 理科教育に組み込むことについて、私の考えをまとめてみました。

 今回からしばらくは、『理科教育』から少し離れて、
 私が1960〜1970年代に実際に受けた学校教育を通じて、
 強く感じていた、教育の縦割・縄張の教育効果上の非効率について
 経験論的にお話ししてみます。

■算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ■

《鶴亀算を発見的解法で教えるべきではない》

 小学生の時に、算数の「お話問題」(今は「文章題」というようですが)
 の宿題を家で解いていたところ、まったくわからなくて、
 夕方の戸越銀座での買い物から帰ってきた母が
 「どれどれ」と言って見てくれたのですが、
 「これ鶴亀算ね」「こちらは旅人算ね」と言いながらスラスラ解いてしまい、
 「問題を解く」という人間の行為を生まれて初めて目の当たりにして、
 驚愕したことがあります。

 太平洋戦争前に小学校教育を受けた母の世代は、
 「鶴亀算」「旅人算」等の、今では特殊算と呼ばれる算数の問題解答技法
 (以下「算術」と名付けておきます)を学校で教えられていたのです。

 しかし、おそらく今もそうだと思うのですが、
 太平洋戦争後の小学校教育では算術は教えずに、
 戦前は算術でスラスラ解ける「お話問題」を、算術を使わずに、
 生徒に発見的に解法を導かせようとする算数教育
 (以下「発見的解法教育」)を行ったのだと思います。

 発見的解法教育については、例えば、以下の論文又は記事:
 『算数教育における文章題指導のあり方に関する研究
  −知的自律性・学び合う共同体の観点から−
』や、
 『小6算数「鶴亀算」指導アイデア
 に紹介されているようなことをイメージしています。

 この算数の「お話問題」でしか使わない算術を発見させるために
 私は、先生に発見的解法教育(相当に原初的だったのでしょうが)
 を試されたわけで、結局のところ、
 徹頭徹尾、理解できない状態から抜け出すことができず、
 算術教育を受けた母がうらやましいと思いつつ、
 何も得るものがないまま悶々とした小学校時代を過ごしたのでした。

 しかし、中学校に進学すると、数学で連立方程式を習って、
 あっけなく「お話問題」が解けてしまうことに出会い、
 あの苦しんだ「お話問題」の発見的解法教育とは何だったのか、
 という思いが今だに忘れられません。

《算数とはどのような教育か》
 私は、教育とは、人類の過去の知的資産のエッセンスを、
 生徒に追体験させて、
 人類の未来に発展的に引き継いでいく糧とする営みと考えています。

 その中で、算数とは、生徒にとって、
 ・この世には「解かなければならない問題」というものがあり、
 ・この世には「その問題を解く方法」というものがあるということを
 この世に生まれて初めて突き付けられる教育的営みである
 と考えることができます。

 その「解かなければならない問題」の典型が、
 算術における『鶴亀算』と言ってよいと思います。

《算術としての鶴亀算》
●問題●
 鶴と亀があわせて10匹います。
 足の数を数えると28本です。
 鶴と亀それぞれ何匹いますか。
●解答●
 @10匹の全部が亀とすれば足の数は40本;
 A10匹の全部が亀とすれば足の数は12本過剰:
 B10匹の亀のうち1匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×1=2本減る(過剰が10本になる);
 C10匹の亀のうち2匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×2=4本減る(過剰が8本になる);
 D10匹の亀のうち3匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×3=6本減る(過剰が6本になる);
 E10匹の亀のうち4匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×4=8本減る(過剰が4本になる);
 F10匹の亀のうち5匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×5=10本減る(過剰が2本になる);
 G10匹の亀のうち6匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×6=12本減る(過剰が0本になる)
 (順列・組合せを勉強するときに、べたに数え上げることができると、
  法則性をよく理解できることがありますが、その作業に似ています)

 即ち、10匹の亀の足の過剰数が0になるまで置き換えられた鶴の数は、
 過剰数(12)÷(亀と鶴の足の差2)=6匹
 であり、亀の数は、     10−6=4匹
 ということになります。

 この典型的な問題と解法を(理屈はともかく)頭に叩き込めば、
 鶴亀算が適用できる問題は解けるようになるということになります。

《算数としての鶴亀算》
 このように、
 ・この世には「解かなければならない問題」というものがあり、
 ・この世には「その問題を解く方法」というものがある
 ということを鶴亀算を典型事例として実感させ、
 ・さらに1つの典型事例を覚える(望ましくは理解できる)と
  それを応用して類似の問題を解くことができる
 ことを追体験させることが、
 算術を題材とした算数教育であると思うわけです。

 この実感と追体験に基づいて、生徒が、
 「解かなければならない問題」は他の教科にもあり、
 「その問題を解く方法」がその教科なりに蓄積されていることを
 発展的に学んでいくことが、
 学校教育の教科学習の側面にはあると思います。

《数学として抽象化する過程の題材としての鶴亀算》
 鶴亀算は数学的には、亀の数をx、鶴の数をyとして、
   x+ y=10
  4x+2y=28
 なる連立方程式を解けば、何の苦労もなく解けることを
 実感することが、数学教育の入り口となるはずです。

 そして、考察する対象を変数に置き換えて、
 変数の間の四則関係を考慮して問題を解くことは、
 代数・幾何の方向では、ベクトル、行列、線形代数等に、
 解析の方向では、微分積分、ベクトル解析等に繋がり、
 最も重要な「解かなければならない問題」としての
 物理・化学に繋がることになります。

 例えば、上記の連立方程式は、行列で表示すると、
式1.jpg
 となり、ベクトルと行列で、
式2.jpg
 と表現すると、以下のようなベクトルの線形変換を表現する式:
 
 となり、高等数学まであっという間に展開されることになります。

《算数教育の問題点》 
 算数の「お話問題」では、
 算術で(戦前に生まれた母も)解ける問題しかでないので、
 公教育では、それらの問題が解ける程度の算術を教えるべきだと思います。

 そのためにある典型的な事例についての解法としての算術を
 (望ましくは理解して、理解しなくても暗記してでも)覚え、
 その算術を、具体的な「お話問題」に当て嵌めて、
 完全に当てはまる場合、少しアレンジして当て嵌める場合
 等を経験することで、
 「算数の問題は解くことができる」ということを体験させること
 が重要なのではないでしょうか。

 法律は一種の典型的事例に対する決め事であり、
 現実の事件に対して、どの法律を、どうアレンジして当て嵌めるかを
 瞬時に判断しなければならないで、
 算術を使って問題を解くことは、法律の実務に重なります。

 「お話問題」の解法を、先生が生徒に対して、
 発見的に誘導するなどという作業は、生徒からみれば、
 単に教育者の実験材料にさせられているだけで、
 教育者の自己満足のためとしか思えません。

 生徒からみれば、発見的解法では、
 「問題を確実に解くことができる」ことが実感できないので、
 いつまでも算数を学ぶことの達成感を持つことができません
 (少なくとも私はそうでした)。

 また、公教育の先生方は国公立の一流大学を卒業されている場合も多く、
 これらの先生方で、中学受験された方は、
 後述するように、中学受験のために算術を頭に叩き込んで、
 算術の達人であるような場合も多いのではないでしょうか。
 
 ご自身が、算術でスラスラ解けることを実体験していながら、
 生徒にはそれを教えずに発見的解法を適用することに拘るところが、
 「小学校算数」が算術とも数学とも拘わりを持たない、
 縦割・縄張的で閉鎖的な蛸壺教育になっているように見えるのです。 

《算数で算術をどの程度教えるべきか》
 算術で解ける問題には限界があり、
 より広範な問題を解くための方法として数学が存在する、
 ということを経験させることが次の段階の教育であると思います。

 ですから、
 算術それ自体を子供の能力の選別に使うほどに精密に教え込むことは
 全く意味がないと考えます。

 このブログを書くに当たり、現代の教育で算術がどう認識されているかを
 ネットでざっくりと調べたところ、算術は、
 やはり小学校では教えられておらず、専ら塾で教えられていて、
 中学受験の必須アイテムとなっていることがわかりました。

 塾の整理によれば、算術を構成する特殊算は20種類以上あるようで
 (中学受験:特殊算は何種類ある?算数の文章題の見分け方)、
 それはそれで趣味で勉強する分には面白いと思いますが、
 中学受験のために、小学生が、
 算術の技法を身に着けるための勉強を必死に行うのは、
 どう考えても不毛でしかないと思います。

 そのような不毛な勉強をさせるのであれば、
 読書しなければ解けない問題を課して、
 小学生の読書の時間を増やす方が教育的なのではないでしょうか。
 
 大学を卒業し、難関の弁理士試験を一発で合格して、
 社会経験を積むことなくそのまま弁理士をする方も多くいらっしゃいますが、
 その中には、多くの解法パターンを頭に詰め込み、
 現実の事案に対して当て嵌る解法パターンを選択するだけで、
 既存の解法パターンで解決できなければそれ以上考えずに、
 顧客に「どうしますか?」と丸投げする弁理士が少なからずいます。

 上記の問題は弁理士だけの問題ではなく、
 桜を見る会・森友問題・アベノマスクなど、
 近年の政治家や高級官僚が自分の頭で考えているとは
 とても思えない状況を見るにつけ、
 中途半端にならざるを得ない発見的解法教育か
 解法パターンをどれだけ詰め込んでいるのかが能力選別の基準のような
 算術詰込教育しかないような算数教育は見直さなければならないと思います。

 次回は、高校における数学・物理・化学の縦割・縄張的教育について
 考えてみます。
posted by Dausuke SHIBA at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年04月18日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)

布マスク2枚を全住所に466億円かけて配布する

 この国の首相は、戦後教育をたっぷりと受けて育っている筈ですが、
 コロナ禍下の政権・メディアの周辺のあまりにも無責任な状況が、
 太平洋戦争敗戦前後の日本の状況と瓜二つであることを見るにつけ、
 日本人に自分の頭で考えて責任を真っ当することについて
 戦後教育は、全く機能しておらず、壮大な失敗であったと、
 しみじみと感じざるをえません。

 ******

 気が滅入る話題が続きますが、春の温かさと共に、
 友人からいただいたガリレオ温度計の一番下のガラス球が沈みました。
KIMG0093.JPG
 まるで理科の教材ですが、季節を感じるインテリアとして癒されます。

■前回の復習■
 前回は、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文の内容について、
 まとめてみました。

 本論文の概要は以下の通りです。
〔題 目〕「日常の現象から理科の見方・考え方を養う:
      水の表面で起こる現象の理科教育教材としての提案」
〔掲載誌〕 山口大学教育学部研究論叢(第69巻 193頁〜202頁 2020年1月)
〔著 者〕 村上清文・和泉研二

 論文の内容と概要は、こちらからみることができます↓
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/metadata/D580069000023

 私の理解では、本論文は以下のような内容です。

日本の理科教育の目的が、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方を養う」ことと、
 A「自然を愛する心情を養う」ことにあるが、
 文科省は、Aについて、
 ・教員に必要な具体的な教材を提示しておらず、
 ・指導要領でも抽象的な努力目標的解説に留めている。
 
 そこで、本論文は、以下の要旨A及びBについて論考しています。
 A.Aに対する教員のための具体的な教材として、
   水に関係する日常の現象を教材とする理科の見方・考え方を提供する。
 B.Aの観点と総合的に密接不可分に結び付くと考えられる
   日常の現象を包括する「環境」概念を教材化する方向性を検討する。

 論旨Aと論旨Bが、ほとんど関連付けられずに独立に展開されるため、
 私としては、論旨Aが論旨Bの中でどう関係づけられるかに興味があったので、
 論文全体としては若干物足りませんでした。

 しかし、要旨Bについては、著者の以下の問題意識が提示されています。
 
 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」し、
 「喜び」と「愛」は一体であり、
 これらがかけがえのないことであるとの認識の上で、理科教育では、
 「目標として「自然を愛する心情」を養うことが受け継がれてきた」が、
 その一方で、その自然環境に対する日本人の問題意識は薄かった。

 そこで、著者は、自然環境に対する@「科学的な見方」を組み込むことで、
 A「自然を愛する心情」を養うことに繋がる、
 @都にを統合した「理科の見方」を構成できると考えます。

■「自然を愛する心情」とは■
 本論文では、論旨Bは以上の問題意識の提示に留まっており、
 著者のさらなる深堀を期待したいと思います。

 今回は、本論文の著者の問題意識に沿って、
 私なりに論考をさらに深堀(大して深くはなりませんが)してみようと思います。

《「自然を愛する心情」における「自然」》
 「自然を愛する心情」における「自然」が何を意味するのかを少し考えてみます。

 著者の指摘する
 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」
 していることは、既にステレオタイプの日本文化論の文脈で、
 いろいろなところで言われることですが、
 ここに登場する「自然」を定義しようとすると意外に難しいことがわかります。

 日本人はは昔から自然環境に恵まれているとされますが、
 ここでいう「自然環境」は、全くの手つかずのままの原生林のようなものではなく、
 多くの場合、人間が手を加えて管理した、
 相当に加工度の高い自然環境であると考えた方が良いと思います。

 全くの手つかずのままの原生林も、我が国の場合には、かつては、
 人間が遠目で見る限りは、四季の移り変わりに伴い、
 風・雨・雪の小道具を配した中で、木々や花の色彩の変化の美しさを
 十分に愛でることができたといえるでしょう。

 しかし、我が国の土木工事の歴史は、おそらく農業の始まりに遡るほどに古く、
 現代に至っては、全くの手つかずのままの原生林などほとんどなく、
 山奥をどこまで進んでも、人間が生活する家屋が絶えることはなく、
 それでも山林が管理されているうちは人工的とはいえ、
 山林全体の秩序感がある種の美しさを感じさせますが、
 近年進みだした管理することが放棄された山林は、
 ただただ荒涼感ばかりが漂うことになります。

 このように考えると、それでも日本人が「自然を愛でる」というのであれば、
 「自然を愛する心情」における「自然」とは、
 原生的な美しさを提供してくれる「自然」とは異なると考えられます。

《極端な例を考えてみる》
●例1●
 例えば、地球を含む太陽系の星々、さらに天上の星座を構成する銀河系の星々、
 さらに、肉眼ではもはや見ることができない銀河系外の星々ですが、
 これらも「自然」といえば「自然」であり、遠目には美しいといえますが、
 地球上の生態系など望むべくもないことを考えると、相当に荒涼感が漂います。
●例2●
 世界には砂漠で生まれて死んでいく多くの人々がいますが、彼らは、
 日本列島に生まれて死んでいく日本人とは全く異なる人生観・自然観を
 持つことでしょう。
 また、ロシアの大地に広がるツンドラや、南極の氷原も、
 シベリア鉄道の周辺や南極基地の周辺以外は、
 手つかずのままの自然という意味では、地球上で最大規模を誇るように思えます。

 このような砂漠・ツンドラ・氷原は、
 「自然を愛する心情」における愛でる対象となる自然といえるのでしょうか?
●例3●
 原爆投下後の広島や長崎は「75年間は草木も生えない」といわれていましたが、
 実際にはそのようなことはなく、草木は逞しく再生し、
 広島市は、私が広島大学の学生だった1970年代には、
 緑生い茂る美しい都市になっていたのでした。

 チェルノブイリ事故や福島原発事故の跡地は今どのような状況なのでしょうか。

《「自然を愛する心情」とは》
 以上のような、天体、砂漠、ツンドラ、氷原、放射能汚染地は、
 「自然を愛する心情」で愛でる対象となる自然といえるのでしょうか?

 天体・砂漠・ツンドラ・氷原・放射能汚染地のような、
 人間にとって過酷な環境は、よく言われることですが、
 欧米人は、人間が利用できるように克服すべき対象と考えますが、
 日本人は、その中に宿る小さな自然を愛でる対象と考えるのだろうと思います。

 例えば、アスファルトで覆われた都会の道端に咲く雑草としてのタンポポを、
 欧米人は単に刈り取るべき雑草と考え、
 日本人は小さな自然として愛でると考えられます。

 以上のように考えると、
 「自然を愛する心情」における「自然」とは、外形的な自然環境ではなく、
 日本人にとって、そこに「生命」が宿ることを感じることができるある種のものを
 「自然」として理解しているように思えます。

 また、日本人は天体である月自体を兎に見立てて月見をして愛でます。

 月面は、「科学的な見方」により、
 地球上での自然環境に相当する生命が存在せず、
 荒涼とした無機物質の広がりであることが既に常識とされていますが、、
 それでも、日本人は月を愛で続けています。

 ここまでくると、日本人は、
 ・相当に加工された自然環境、
 ・そこに「生命」が宿っていると感じられる環境、
 ・さらに、たとえ「生命」が宿っていそうにない環境でも、
 日本人はそれらを「自然」として愛で得るということになります。

 このような日本人の「自然を愛する心情」は、
 たとえ「生命」が宿らない自然ですら愛でる対象であることになり、
 これはもう、
 万物に神が宿るとする日本人の宗教観と密接不可分な心情である
 と考えなければ理解できないことになります。

《「自然を愛する心情」と対極にあるもの》
 こうした日本人の「自然を愛する心情」は耳障りの良い響きをもちますが、
 一方で、日本人は、どうして、
 ・日本国中くまなく50基強の原子力発電所を平気で建設し、
 ・原発事故後の汚染水を平気で海に流そうとし、
 ・日本の伝統農業や水環境を壊滅させかねない、
  水道の民営化、種苗法の改正、TPP協定の締結等を平気で行い、
 ・コロナ禍の下、日本国民の生命が脅かされている状況で、
  オリンピック開催を最優先にした政策を平気で進められたのか、  
 これらの「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる、
 日本人による利権のための躊躇なき行動をどう説明したらよいのか。

 文科省と教育関係者は、「自然を愛する心情」を教育の基礎として認識するならば、
 その対極にある「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる上記の行動を、
 文科省に隣接する官公庁が率先して行うことも視野に入れた上で、
 教育行政なり教育研究なりを語るべきではないかと思うのです。
 (前川喜平氏くらいの優秀な面従腹背官僚であれば視野に入れているか?)
 
■教育の基礎としての「自然を愛する心情」■
 以上のように考えると、「自然を愛する心情」とは、
 理科教育に限らず、全ての教科、あるいは教科に分化する前の段階で、
 教育の基礎となる高度に哲学的な命題であり、
 これを真剣に考えることは、現代の我国の深刻な問題を考えることに直結し、
 日本人が一生を通して自らの頭で考えるに値する命題であろうと思われます。

 そして、「自然を愛する心情」を考えようとすれば、
 「科学的な見方」だけではなく「哲学的」「歴史・文化的」「法政治的」「芸術的」
 等の様々な観点からの見方が必要であることになります。

 ここまで大風呂敷を広げると、「自然を愛する心情」を教育の場に取り込むには
 何世紀もかかりそうな気もしますが、
 それほど大上段に構える必要もないと思っています。

 教育の場では、「自然を愛する心情」は、
 先生方が、その高度な哲学的命題に常時取り組むご自身の姿を
 生徒に見せ続けることで、
 生徒の頭と心に刷り込まれていくのではないかと思っています。

 即ち、「自然を愛する心情」のような抽象的概念は、
 先生方が悪戦苦闘して取り組む姿を通して、
 自分の頭で物事を考えるとはどういうことなのかを含めて、
 生徒の頭と心に刷り込ませていくしかないのではないかということです。

 現状のようなブラック企業まがいの教育環境で、
 先生が自分の頭で何か考える時間も余裕もなく、
 生徒の面前で、神戸の同僚教師の醜悪ないじめ問題のような
 救いようのない教育崩壊を見せてしまうような余裕のなさでは、
 到底「自然を愛する心情」など教育の過程に載せられる筈がありません。

 ******

 「自然を愛する心情」を教育の場に取り込むための基盤は、
 まずは、全教科の先生方が共同して、
 「自然を愛する心情」を(先生方が)学ぶのに有用な文献リストを作成する
 ところから始めるのもよいのではないかと思います。

 典型的には、日本人の自然を愛する心情や宗教観を文字によって表現してきた
 奈良・平安時代から現代にいたるまでの代表的な文学・戯曲・思想・歴史書を
 リストアップする作業を1年程度かけて行う
 (図書室の司書の先生が活躍できるのではないでしょうか)。

 ここには、手塚治虫の『火の鳥』等の漫画や、
 小松左京の『日本沈没』や欧米人の自然観を体感できるSFも含めて、
 ジャンルを問わず収集することで、子供との接点を担保できると思います。

 その後、先生方の興味に応じて、リストアップされた中から選んだ教材を、
 1年かけて研究し、自然を愛する心情の観点から、
 (理科の先生が小説に、国語の先生が科学史に挑戦してもいいでしょう)、
 その成果を、生徒や親やOB・OGとなったかつての生徒も集った中で
 学内研究発表して意見交換する、なんていうこともありではないでしょうか。

 そのような先生方の息の長い継続的な活動を見せ続けることによって
 生徒にとっては、小学校の6年間、中学校の3年間の、
 節目節目の発達段階において、
 先生方自身が成長し、先生方が「科学的に物事を考える」姿に接することで
 「自然を愛する心情」を発見的に学び、
 生涯に渡り自分の頭を使って物事を考えることの意味を感じ取る
 ことが期待できるのではないかと思うのです。

 そして、現代の「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる、
 上述した利権まみれの日本人の在り方について、
 自分の頭で真剣に考えることに繋がるのではないかと思っています。

 ******

 以上が、村上先生の論文を読んだときに私なりに考えた、
 「自然を愛する心情を養う」ことの意味でした。

 次回は、「自然を愛する心情を養う」から少し離れますが、
 算数・数学、物理・化学教育において、教科の縦割り的・縄張り的な教え方を、
 もう少し合理的・本質的な教え方にできないものかについての、
 私の経験的持論を語ってみたいと思っています。
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2020年04月05日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)

 「布マスク2枚を全住所に配布する

 この国の首相は、戦後教育をたっぷりと受けて育っている筈ですが、
 コロナ禍下の政権・メディア周辺のあまりにも無責任な状況が、
 太平洋戦争敗戦前後の日本の状況と瓜二つであることを見るにつけ、
 日本人が自分の頭で考えて責任を全うすることについて
 戦後教育が全く機能しておらず、壮大な失敗であったと、
 しみじみと思わざるをえません。

 そんな中で、数学の超難問「ABC予想」を望月先生が証明したらしい
 という話を聞くと、一縷の希望というか光が見えてくる思いです。

 ******

 気が滅入る日々ですが、せめて、
 私の事務所に近いところで見た春の雰囲気を画像見物して下さい。
KIMG0080.JPG

KIMG0082.JPG

 先日、私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された村上清文先生から、
 村上先生が執筆者の一人である理科教育に関する論文が届き、
 「読んで感想を聞かせてくれないか」とのことで読んでみたところ、
 とても新鮮な刺激をいただいたので、
 今回は、この論文をきっかけ話として、
 理科教育について私の思っているところを書いてみます。

******

 昨年(2019年)、村上先生が上京した折に、
 大学院OBが集って飲み会をしたのですが、
 皆がほどよく酔っぱらった中で、村上先生が、
 日本の理科教育の目的は、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方」を養うことと、
 A「自然を愛する心情」を養うことことにあると話しだしたのです。

 それを聞いて、日本酒を飲みすぎて相当に酔っぱらっていたのですが、
 @は、理科教育だから、当然に目的としているだろうけれども、
 Aは、理科教育に似つかわしくない、やけに文学的な言い回しだな
 と、私のふやけた頭に強く印象に残ったのでした。

 そのため、本論文の最初の1行目を読んだときに、
 あの時の話のことなんだと合点がいき、
 あの時の話がいったいどう展開するのだろうと興味深いものがありました。

■論文の概要■
  論文の内容と概要は、こちらからみることができます↓
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/metadata/D580069000023

〔題 目〕「日常の現象から理科の見方・考え方を養う:
      水の表面で起こる現象の理科教育教材としての提案

〔掲載誌〕 山口大学教育学部研究論叢(第69巻 193頁〜202頁 2020年1月)
〔著 者〕 村上清文・和泉研二

■論文の要約■
〔要旨〕(私の理解です)
 日本の理科教育の目的は、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方を養う」ことと、
 A「自然を愛する心情を養う」ことことにあり、
 文科省は、これら2つの観点を内包するように、
 「理科の見方・考え方を養う」と表現している。

 しかし、文科省は、Aについて、
 ・教員に必要な具体的な教材を提示しておらず、
 ・指導要領でも抽象的な努力目標的解説に留めている。
 
 そこで、本論文は以下を論旨として展開される。
 A.Aに対する教員のための具体的な教材として、
   水に関係する日常の現象を教材とする理科の見方・考え方を提供する。
 B.Aの観点と総合的に密接不可分に結び付くと考えられる
   日常の現象としての「環境」概念を教材化する方向性を検討する。

〔構成〕(本論文の小見出を列挙してみます)
 論旨Aは、以下の2〜5及び6−1で詳述され、
 論旨Bは、以下の及び6−2で詳述されています。 

1.緒言

2.水の基礎知識
2-1.地球上の水の起源、分布及び循環
2-3.水の性質
2-3-1.形
2-3-2.表面張力
2-3-3.濡れ
⇒ 小見出番号に誤記がある(「2-2」がない)ようです。

3.水面で働く力
3-1.水の粒(分子)同士は引っ張りあっている?
3-2.メニスカスの観察
3-3.1円玉を浮かべてみよう
3-4.二枚目を縦にして
3-5.集合するわけ

4.水-空気界面が関係する日常の事例
4-1.筆や髪の毛は濡れると纏まる
4-2.水面上の泡は寄り集まる
4-3.泥団子や白玉団子を作るには水が必要
4-4.水に浮かんだ浮き草や花びらは寄り集まる
4-5.濡れ手で粟
4-6.逆さコップの水が落ちない訳
4-7.昆虫の脱出戦略

5.界面活性剤の効果
5-1.盛り上がった水はどうなる
5-2.アメンボが溺れる?

6.教材化にあたって
6-1.本教材の効果
6-1-1.科学の始まり
6-1-2.驚きと不思議さ
6-1-3.納得
6-1-4.環境教育
6-2.理科の見方における環境の位置づけ


■本論文の私の理解■

《論文の構成について》
 論旨Aと論旨Bがほとんど関連付けられておらず、
 論旨Aは2〜5及び6-1だけで一まとまりの、
 水を題材とした@「科学的な見方・考え方」の説明で、
 論旨Bは、A「自然を愛する心情」に触れながらも、
 6-2の流れで、論旨Aとは独立に展開されています。

《論旨Aについて》
 私は、会社勤務時代に界面科学を基礎とした製品開発をしていたので、
 ここに説明された事項はとても馴染みがあり、これらの事項が、
 このような形で理科教育の教材として子供達に提供され、
 その教育的効果がこのようにして評価されるのか、
 という、教育学部の先生方の教育上のテクニカルな取扱いが面白いと思いました。

 一方で、私としては、論旨Aが、
 主たるテーマである論旨Bの中でどう関係づけられるかの方に興味があったので、
 論旨Aがそのような関係づけがなされていないのが残念でした。
 
《論旨Bについて》
 本論文の著者は、「1.緒言」で、理科教育の目的として、
 @「科学的な見方・考え方」及びA「自然を愛する心情」を養うこと
 を内包するはずの、文科省が標榜する「理科の見方・考え方」には、
 「自然を愛する心情」のための具体的な姿(教材)が示されていない
 と指摘します。

 その上で、著者は「6-2.理科の見方における環境の位置づけ」について、
 以下ように説明します
 (なお、私の理解では、文科省(及び著者)は、
  「理科の見方・考え方」を
  「理科の見方」「理科の考え方」の2つに分けて考えているようです)。

 文科省は「理科の見方」をエネルギー・粒子・生命・地球の観点で整理しているが、
 「科学的な見方」にウェートが置かれ、
 「自然を愛する心情」の要素がが含まれていない。
 
 そこで、著者は、「理科の見方」に、
 「自然を愛する心情」に直結する自然科学的枠組みとしての「環境」概念を加える
 ことを提唱します。

 その理由として、著者は、以下のように考えているように思いました。

 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」し、
 「喜び」と「愛」は一体であり、
 これらがかけがえのないことであるとの認識の上で、理科教育では、
 「目標として「自然を愛する心情」を養うことが受け継がれてきた」が、
 一方では、その自然環境に対する日本人の問題意識は薄かった。

 そこで、著者は、「理科の見方」に、エネルギー・粒子・生命・地球に加えて、
 自然環境に対する「科学的な見方」を組み込むことで、
 「自然を愛する心情」を養うことに繋がる「理科の見方」を構成できると考えます。

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 論旨Bは、まずは、以上の問題提起に留まっており、
 私としては、著者のさらなる深堀を期待したいというところです。

 私は、論考をさらに深堀するうえで、
 以下の事項を考察することが不可欠ではないかと思っています。

「自然を愛する心情」とは何か?
「日常の現象」とは何か?
「自然を愛する心情」⇔「日常の現象」⇔「科学的な見方」の関係は?

 これらについて、次回、私の持論をまとめてみたいと思います。

posted by Dausuke SHIBA at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育