2016年08月13日

『シン・ゴジラ』あまりに発想が貧困ではないか(その2)

 最初にアンギラスが上陸してきたので、
 なんだ、米国版と同じ、予告されない怪獣が登場して、
 ゴジラと闘うのかと思ったり、
 日常の都市風景にゴジラが溶け込んで破壊行動するなど、
 とても面白い部分もあったのですが、
 以下の点がどうにも発想が貧困で見ていて辛かったです。

●何故、ゴジラを攻撃せず都民を逃がすことを選択肢に入れないのか?●

 官邸での会議ですったもんだした挙句の選択肢が、
 「捕獲」「駆除」「排除」するか(だったかな)のどれかしかない、
 という設定で、そのために自衛隊がゴジラに対して、
 ミサイル攻撃を含む銃撃戦闘をする方向にまっしぐらに進むことになります。

 しかし、選択肢を検討する時点で、
 ゴジラの発生原因と巨体を維持するためのエネルギー源などが検討され、
 ゴジラは体内に原子炉を有する歩く原子炉に等しい、
 という推測が関係者に共有されています。

 そうであれば、攻撃によってゴジラが傷ついた時に、
 体内原子炉の制御不能に陥る可能性がある、
 戦車・ミサイルなどによる砲撃を行う選択肢はありえないでしょう。

 理屈をつけて、ゴジラの顔と足だけを攻撃しますが、
 このような攻撃は、東北大震災で原発事故を起こした原子炉に、
 ミサイルを撃ち込むようなもので、仮に、
 ゴジラの脳が破壊されて、体内原子炉の制御が効かなくなる、
 足が折れて倒れた拍子に、体内原子炉が損傷するなどしたら、
 大変なことになることくらいは、
 東北大震災の原発事故で学習済という前提くらいはつけろよ!

 過去のゴジラ映画の設定は引き継がなくてよいけれども、
 東北大震災=原発災害は事実としてあったという設定にして、
 登場人物に、
 ゴジラ災害と原発災害の類似性を検討させてもよいはずです。

●何故、思索の面白さを表現しないのか?●

 筒井康隆が、かつて、
 SFとは思索小説(speculating fiction)だと言っていますが、
 『日本沈没』などはその典型です。

 『シン・ゴジラ』は、ゴジラ上陸の非常事態に、
 現状の日本国の制度がほとんど機能しないことを
 シミュレートしているようですが、
 そんなことは、東北大震災、熊本大震災をみれば、
 シミュレートするまでもなくわかり切ったことで、
 それをわざわざ再現して見せられても全く面白くありません。

 ゴジラを移動するに任せて、その上で、
 それでは、1000万都民をどう避難誘導できるのか、
 のような設定をして、シミュレーションする方が、
 よほど思索的ではないでしょうか?

 新幹線やJR車両のああいう使い方を見せるのでなく、
 時計並に正確なダイヤ運行システムや、
 災害時にあっても規律正しい行動をする国民性、
 世界有数の輸送産業を有する我が国の特性を生かした、
 1000万都民の脱出方法はいくらでも考えようがあると思うのです。

 ゴジラを止める時間稼ぎの手立てとしては、
 今回のゴジラが従来以上に単にゆっくり歩いて移動するだけ、
 という生態を考慮すると、足元に大量の潤滑剤を撒いて、
 足が滑って歩けなくなるという設定も安上がりで面白いかもしれません。

 我が国には、優秀な界面活性剤メーカーが多数あるので、
 頑張ってもらえばよいでしょう。
  
 結局、『シン・ゴジラ』は、ゴジラと現実の最新鋭兵器の対決を見せるために
 論理的でも思索的でもない安易な設定をしているだけのように見えます。

 おそらく、放っておけば、ゴジラは日本中の原発に立ち寄って、
 放射性廃棄物や核エネルギーそのものを食い尽くし、
 やがて放射能が対外に漏れ出し相当危険な状態になると思いますが、
 そうならないように、日本中の原発をまず止めて、
 AI、ロボットを活用して放射性廃棄物をかき集めて、ゴジラを海に誘い出し、
 例えばアメリカが核実験を繰り返して、いまさら大規模な核戦争が起こっても、
 もはやそれ以上環境が悪化しないような場所で、
 日米共同で対ゴジラ核戦争をするのもありえるのではないでしょうか。

 どのみち、そのようなことをすれば、ゴジラが超進化を遂げて、
 日米軍は全滅し、ゴジラは核エネルギーを求めて、
 ロシア、フランスに彷徨い進むという筋になるでしょう。

 しかし、そのことによって、日本から核は一掃され、
 核汚染されなかった東京に避難民は戻り、
 物理的な破壊から立ち直るべく明日を生きていく、
 などいう感動的な筋もありえましょう。

 世界中の核エネルギーを食い尽くしたゴジラは、さらに超進化を遂げて、
 最終のエネルギー源たる太陽に向けて飛翔していく
 などという『バルンガ』のような終結もあるかもしれません。

 絶対的な能力をもつ宇宙人がきただけで、
 世界に平和が訪れる『幼年期の終り』の逆説も参考になるでしょう。

●政治家のステレオタイプ表現がステレオタイプすぎないか?●

 政治家の俗物性、官僚機構の硬直性、システムの属人性などは、
 黒澤明、山本薩夫などの超一流監督が演出し、
 佐分利信、芦田伸介、滝沢修などの超一流俳優が演じたせいで、
 鼻をつまみたくなるような俗物かつ冷血ぶりを漂わせるというのが、
 一つの典型的な描き方(ステレオタイプ)として定着しています。

 最近でも『Doctor.X』の病院関係者の描き方がそうでしょう。

 しかし、ステレオタイプの中にも、
 演出・俳優の見せ方には工夫と個性があり、
 例えば、「Doctor.X」の毒島院長(伊東四郎)、鳥居教授(段田安則)
 など、かつての『白い巨塔』の頃に比べると現代的な味付けが施され、
 実に面白いと思うのです。

 『シン・ゴジラ』に描かれた政治家・官僚に何か新しさがありますか?

 遠い昔、我が国の首相が「人命は地球より重い」と言って、
 ハイジャッカーと取引をしましたが、
 当時、他国では絶対にしない行動だ、などとして、
 功罪相半ばであるとの報道がなされました。

 最近でも、東北大震災の原発事故で、自ら現場に赴き、
 自分の目で確かめてから、
 都民を避難誘導させることを真剣に考えた我が国の首相がいます。
 こちらも、
 現場を徒に混乱させたとして決して好意的には報道されていません。

 しかし、この2人の我が国の首相は、おそらく、
 キューバ危機で核ミサイルの発射ボタンを押すか否かの決断を迫られた、
 ケネディ大統領と同じような状況に直面した稀有な体験をしたのです。

 『シン・ゴジラ』は、これらと同じ程度に切羽つまった状況であるのに、
 そのときに政治家がどう行動するかについて、
 何故スケールの小さい笑い話のようなステレオタイプの
 描き方になるのでしょうか?

 黒澤明や山本薩夫の時代よりもさらに、
 現実の事例が蓄積されているのですから、
 もう少し真剣にシミュレートしなければ、
 TVにも追いつけないのではないですか。

●何故『シン・ゴジラ』なのか?●

 この『シン』というのは、
 庵野総監督の『シン・エヴァンゲリオン』の流れで
 ついたタイトルのようですが、長年ゴジラを見て来たけれども、
 庵野氏の漫画・アニメを全く知らないものにとっては、
 変なタイトルを付けるな、という感じしか残りません。

 映画全体では従前のゴジラシリーズに対して、
 思い入れのあることは伝わるので、
 普通に『ゴジラ』にすればよいのではないのでしょうか?
 
******

 ということで、『シン・ゴジラ』は、全体に、
 発想が貧困であることばかりが記憶に残る映画でありました。
 
posted by Dausuke SHIBA at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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