2019年12月07日

『桜を見る会』問題と日本人の論理的思考能力

■日本の高校生の読解力■
 経済協力開発機構(OECD)が、79か国・地域の15歳計約60万人を対象にした
 2018年度「国際学習到達度調査(PISA)」で、「読解力」で、
 日本の高校生が2015年度の8位から15位に急降下したことが話題になりました。

 調査内容そのものは公表されていないのですが、
 文科省が「読解力」の問題例を公表していたので見てみました↓
http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/04_example.pdf

 問題例は、女性教授が、
 ラパヌイ島(モアイ像で有名なイースター島)のフィールドワークに関する講演会
 を行うにあたり、聴講者に、
 事前にラパヌイ島の歴史について調べさせるという設定で、
 女性教授のブログに掲載された以下の資料:
 @ラパヌイ島に関する女性教授のブログ記事;
 Aラパヌイ島の文明崩壊に関する著書に対する女性教授の書評;
 Bラパヌイ島の森林破壊に関するニュース記事
 を読ませ、それぞれに設けられた7つの問に回答させるという内容です。

 例えば、問7は、
 「三つの資料を読んで、
  あなたはラバヌイ島の大木が消滅した原因は何だと思いますか。
  資料から根拠となる情報を挙げて、あなたの答えを説明してください。」
 という内容で、自由記述で回答しなければなりません。

 それぞれの資料はA4で1頁程度の量ですが、内容をきちんと把握して
 論理的に文章を組み立てる必要があるので、
 論理的思考能力のない高校生には回答が難しいと思われます。

 PISAの対象となる日本の高校生は、
 それなりに優等生が選ばれていると思いますから、
 優等生にしてこの順位(低読解力)では、
 優等生でない劣等生は目も当てられない低読解力と考えられます。

■『桜を見る会』問題との関係■
 PISAの記事が報道された時期に、『桜を見る会』に関して、
 内閣官房等の官僚に対する野党のヒアリングが連日行われています。
https://www.youtube.com/user/thepagejp/videos?disable_polymer=1

 このヒアリングでの、野党議員の質問に対する官僚の回答を聞くと、
 「違法でなければいい」という倫理上最低限の防衛ラインを死守するための
 頭脳を使った形跡のない、論理のかけらもない
 耳を覆わんばかりの発言が延々と繰り返されています。

 中心となるのは、内閣中枢を支える内閣官房の官僚ですから、
 官僚のなかでもT大等を出た選りすぐりの秀才エリートであるはずですが、
 PISAの低読解力の優等性の親の世代だと思えば、この親にしてこの子あり、
 妙に納得してしまったりもします。

 野党が『桜を見る会』問題に総力を挙げる状況に対して、
 「このような小さな政治課題に、
  どれだけ国会の貴重な時間と労力をかけるのか、
  議論すべき重要な政治課題が他にあるだろう」と揶揄する声が上がります。

 しかし、この問題の本質は、政治課題の大小の話ではなく、
 小さな政治課題に対するヒアリングで露骨に顕在化した、
 我が国中枢の論理なき低次元の最低レベルの討議が、
 TPP・FTA(特に食・公共インフラ民営化の問題)、防衛、労働環境、公教育、
 年金、モリカケ、(IPS基礎研究支援打切りにまで進展した)研究政策、
 アベノミクス、統計不正、政権のメディア管理、消費税等の
 大きな政治課題の全てにおいてなされているという点にあり、
 アベノミクス・年金運用・教育改革の明らかな失敗をみてもわかるように、
 このような論理なき低次元の最低レベルの討議に基づく政策が
 成功するはずがないのです。

 そして、『桜を見る会』問題という小さな政治課題でさえ、
 野党が総力を挙げて追及して、ようやく蟻の一穴になるか、
 という状況ですから、その他の大きな課題のそれぞれに対して、
 野党が分散して立ち向かっても、既になされてきた、
 論理なき低次元の最低レベルの不毛な討議以上にならないことは
 目に見えています。

 そうであれば、野党が結集して、
 小さい政治課題に蟻の一穴を開けようとすることも
 戦略として一理あるでしょう。 

■日本人の論理的思考能力は何故育たないのか■
 これまでの私の細やかな社会経験からみて、
 日本人に論理的思考能力が育たない(=読解力が低い)のは、
 「責任を一切とりたくない」という
 日本人の骨の髄まで染み込んだ精神的遺伝子と密接不可分であると思われます。

 日本人が誰かと何らかの討議をすると、
 @それぞれが責任をもつ主張をまずは提示しあい、その上で、
  様々な条件を検討し、譲歩・妥協を重ねて、
  双方に有益な結論に導くという方向には中々進まず、
 Aまず、相手の主張を聞いて、その相手の主張に自己をどう当て嵌めていくか、
  という方向に進むことが多いと思われます。

 Aの進め方は、日本人の多くの討議の場で見ることができます。

 Aのような進め方ばかりすると、
 自己の主張を事前に整理して、論理的思考に基づいて、
 相手を説得できるような主張をする訓練をしないまま、
 相手の論理に引きずられてしまい、結果として論理的思考能力が育ちません。

 以下では、私が「ア〜、これではなあ」と思った事例を挙げてみますので、
 考えてみて下さい(私の昔の記憶から掘り起こしている事例は、たぶん、
 フィクションが相当に交じっていますが、よく見られる光景と思います)。

《エピソード1(古典的事例)》
 丸山眞男『天皇制における無責任の体系』と河合隼雄『中空構造日本の深層
 による日本人社会の分析は、いまだに正しいことを実感してしまいます。

 これらの分析によれば、第二次世界大戦(日本にとっては太平洋戦争)における
 日本の戦争責任を当の日本人に問いただしていくと、
 ●一般国民:マスメディアに煽られ軍部の独走に巻き込まれただけで、責任はない。
 ●二等兵:徴兵による最下層の兵として軍の指示に従っただけで、責任はない。
 ●一等兵:上等兵の指示に従っただけで、責任はない。
 ●上等兵:軍曹の指示に従っただけで、責任はない。
 ●軍曹:少尉殿の指示に従っただけで、責任はない。
 ●少尉:中尉殿の指示に従っただけで、責任はない。
 ●中尉:大尉殿の指示に従っただけで、責任はない。
 ●大尉:少将閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●少将:中将閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●中将:大将閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●大将:元帥閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●元帥:大元帥閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●大元帥:御前会議で報告を受けただけで、責任はない。
 ●御前会議:大元帥のご意思を慮った報告をしただけで、責任はない。
 となり、最後まで辿っても、何もない中空に「報告」が浮かんでいるだけ
 という怪奇スリラーになるわけです
 (この怪奇スリラーを、とてつもなく面白いミステリーにしたのが、
  大西巨人『神聖喜劇』で、全5巻の大作ですが、ご一読をお奨めします)。

《エピソード2(桜を見る会)》
 記者会見では、以下のようなやりとりがなされています。
 ●菅 :『桜を見る会』の推薦名簿掲載の最終責任者は自分だ。
 ●記者:推薦名簿はいつ廃棄しましたか?
 ●菅 :5月9日にシュレッダーにかけた、と報告を受けています。

 野党ヒヤリングでは、以下のようなやりとりがなされています。
 ●野党議員:推薦名簿はいつ廃棄しましたか?
 ●官房課長:官房長官の説明した通りです。

 上記のやりとりをみると、官房長官は最終責任者なのだから、
 記者会見では「5月9日にシュレッダーにかけた」と言い切ればよいのに、
 「と報告を受けています」と続けるので、
 官房スタッフが決めてその通りにしている(自分の意志ではない)
 というこになってしまう一方、
 官房課長は「官房長官が説明した通りです」としてしまうので、
 官房スタッフではなく官房長官が意思決定したことになり、
 官房長官と官房スタッフのどちらに責任があるか不明確になります。

《エピソード3(ある勉強会で)》
 法学部の学生や意識高い系市民が集う勉強会に、私は、
 ひょんなことをきっかけにして飛び入りで参加することになりました。

 勉強会では、月に1回、
 戦後に旧文部省が編集した中学・高校用教科書『民主主義』を、
 勉強会メンバーが分担して1回に20頁程度ずつ読み合わせをしている
 とのことでした。

 その日は、法学部の学生さんが、
 民主主義が萌芽した17〜18世紀のイギリス・フランスの社会状況を、
 教科書に沿って説明してくれました。

 しかし、説明というよりは教科書をそのまま読んでいるだけのようなので、
 少し意地の悪い質問をしてみました(いつもこれで嫌われるのですが)。

 ●私 :イギリスなりフランスでは、今回の説明の流れの中で、
     どの場面で、民主主義といえるものが発生したことになりますか?
 ●学生:・・・・・・民主主義自体の話はここには説明されてないので
     ・・・・・・しどろもどろ、しどろもどろ、しどろもどろ・・・・・・

 法学を専攻する学生が、このような市民のサロン的勉強会で、
 中学・高校用教科書で一から民主主義を学ぼうなどと考える方がおかしい
 と思うのです。

 法学の考え方は、民主主義の骨格を形成する大きな要素ですから、
 大学の法学(特に憲法)の講義では、
 先生は必ず民主主義との関係に触れているはずです。

 そうであれば、学生なりに民主主義のイメージくらいは持っていて、
 そのイメージは、教科書の歴史的観点の切り口からみて、
 どのように位置付けられるのか、くらいの論理的思考はして欲しいものです。
 
 学生が私に苛められていると察しられた、市民メンバーであるシニアのご婦人が
 学生に助け舟を出そうと後方から意見を言われました。

 ●婦人:質問された方は、この教科書を最後まで読むと答えがわかりますよ。
 ●私 :・・・・・・(絶句)

 私からみれば、ご婦人は教科書を最後までお読みになっていて、
 ご意見によれば、私の質問の回答がおわかりのはずでしょうから、
 ご婦人が、学生に代わって説明すればよいのに、と思うのですが、
 回答は私が教科書を読んで探すべきだということになるのです。

 日本人の討議ではよく出くわすやりとりですが、
 論理的に考えないと答えられない私の質問に対して、
 学生とご婦人は、自ら答える努力をせずに、
 答えは教科書に書いていないなどと教科書に責任を転嫁し、
 質問の回答を知ることは質問者の自己責任のような話にしてしまうので、
 民主主義と17〜18世紀のイギリス・フランスの社会状況の関係について
 結局何も考えないままになっています。

 日本人による勉強会の多くは、このように、
 ありがたいお経を読む会のようになってしまい、
 討議することによって論理的に意見交換することをしないため、
 勉強した気分に浸るだけで、論理的思考能力が育たないのです。

《エピソード4(某特許事務所で)》
 私が某特許事務所に入所したばかりの頃、
 既に退所していた前任者が手掛けた特許出願の審査で出された、
 拒絶理由通知の処理をすることになりました。

 拒絶理由は、特許請求の範囲に特定された数値範囲に、
 実施例が入っていないので、発明の範囲が明細書でサポートされていない
 というサポート要件違反でした。

 明細書の記載も、実施例の範囲に入っていないため、
 補正のしようがなく、絶体絶命のピンチとなりました。

 こんな明細書を書いた前任者が問題なのですが、
 既にいない前任者を責めることもできません。

 そこで、入所したばかりの私が、この難問に取り組んでみたところ、
 若干奇抜ながら、論理的には筋の通る補正案が見えてきたのです。

 そこで、この補正案を私の上司であるT大出の副所長に提案してみたのです。

 ●私  :これこれこういう理屈で補正すれば拒絶理由は解消しますから、
      意見書でも論理的な説明ができるはずです。
 ●副所長:あら〜、私の経験から言ったら、それは失敗するリスクが高いわ。
      失敗したら、お客さんになんて言い訳するの?
      こういうときは、お客様にどうするか聞いて、
      お客様の言う通りにしてちょーだい。

 遠い昔に、私が企業の研究所に勤務していた頃、
 私が発明者である出願の拒絶理由通知に対して、特許事務所の担当者に、
 頭から「この拒絶理由に対してどのように補正しますか?」と聞かれ、
 特許事務所の人は何と無責任なんだろう、と思ってしまったことが思い出されました。

 拒絶理由に対する補正案を検討するというような専門的なことは、
 特許事務所がまず顧客に案を提示すべきで、
 最初から専門家でもない顧客に聞くなら、特許事務所が代理する意味がないだろう、
 と思ったものです。

 副所長の話を聞いて、特許事務所は今でも同じ姿勢なのか
 (特許事務所側は一切責任を取りたくないのか)と半ばあきれてしまいました。
 
 結局、副所長の戯言は無視して、私の補正案を顧客に提示して了解をいただき、
 審査官に事前に検討してもらったら、審査官はこれでOKと言ってくれ、
 無事に特許査定になったのでした(顧客は驚き喜んでくれました)。

 このような、顧客に責任を委ねて、顧客の方針の範囲でしか作業をしない弁理士は、
 論理的思考能力が育たず、いつまでも難しい案件に対処できないことになります。

《エピソード5(知人との会話)》
 一家言もっている方と、その方の考えについて議論することがときどきあります。

 私としては、その方の考えを、その方の言葉で聞きたいのですが、
 その方は、自分の説明はそこそこに切り上げて、
 「この本を読むともっとわかると思う」と、結構厚くて、文字がびっしり詰まった
 相当に集中しないと読めない単行本を貸してくれたりします。

 私は、彼が自分の言葉で説明する努力をしてくれたらなあ、と思ってしまいます。

 例えば、私が誰かと知的財産の話をする際に、私がその方に、
 「特許法の教科書を一冊でも読めば私の話がもっとわかると思います」
 などと言って、特許法の教科書を貸すことはありません。

 私は、自分の興味のある話を人に話すときは、
 自分なりの理解を、自分の言葉で説明する努力をします
 (聞く方にとっては、ありがた迷惑でもあるのですが)。

 当然、私の説明がわかり難ければ、相手から解り難い等の注文がつくわけですが、
 そこで、自分の説明を分かり易くする(論理的道筋を明瞭にする)努力をすると、
 結果的に自分の論理的思考能力が鍛えられることになります。

 多くの日本人はそのようなことをせず、自分の考えでなく、
 自分が読んだ本に代わって説明してもらおうということをしますが、
 これでは、自分の考えを論理的に整理する機会を自ら捨ててしまうことになり、
 論理的思考能力は育ちません。

******

 以上のように、私の身近な日本人とのやりとり、及び
 一見、論理的思考能力が高いと見られている特許事務所でのやりとりから
 我が国の中枢のエリート官僚による『桜を見る会』でのやりとりに至るまで、
 日本人は、条件反射のように、まず責任回避をする方向に頭を使うので、
 これでは論理的思考能力は育たないし、その責任回避の在り方が、
 丸山眞男・河合隼雄の古典的分析で説明し尽くせるほど、
 今の日本人も、戦前の日本人とほとんど同じだというのは驚くべきことです。

 このままでは、我が国は、国民全体が思考停止した中で、
 戦前、原爆投下されるまで戦争を続けたのと同じように
 TPP・FTAのような重要な政治課題に自らの責任で向き合うことなく、
 ただただ流されてしまい、その挙句、
 原爆投下のような取返しのつかない破滅的カオスに陥るのではないかと
 悪夢のようなことが頭をよぎる今日この頃です。
posted by Dausuke SHIBA at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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