2020年01月12日

『R.U.R.』古典ロボットSFに若手演出家が臨む(その2)

 若手演出家で劇団「東京娯楽特区」を主宰する広岡凡一氏は、
 私の行政書士繋がりの大先輩の天辰先生が主宰する
 新宿の朗読劇団で活躍し始めた頃から注目しています。

 今回は「単独演出で東京娯楽特区の新作を上演するので見に来てくれ〜」
 ということでしたので、正月明け早々に、
 仙川劇場で行われた最終日(2020年1月6日)の最終公演に出向きました。

 『R.U.R.』の時代的背景とあらすじはこちらを参照して下さい。
http://patent-japan.sblo.jp/article/187026603.html

 舞台全体は、こんな感じです↓
https://www.twugi.com/account/smimal1/tweet/1214467654846574592

《舞台》
 第1幕はR.U.R.社の応接ロビー、第2幕は豪邸の1室、第3幕はR.U.R.社の跡地
 という各幕1場のほぼ室内劇という単純な舞台設定なのですが、
 原作の物語構成の面白さ、ヘレナ役に嵌る主演女優のビジュアル、
 そして広岡凡一氏の巧みな舞台美術によって、
 休憩なしの2時間を飽きることなく見続けることができました。

〔キャスト〕
 ヘレナは、自分の頭で考えているとは到底思えないブルジョアの娘で、
 自分の信念を貫くことで人間を破滅に追いやってしまう、
 かわいいだけが取り柄のお馬鹿女といえますが、こんな役は、
 それなりのビジュアルと演技力がなければできないところ、
 主演女優の佐藤愛里奈さんは嵌り役だったと思います。

 ドミンがヘレナの唇を奪う場面は、えらく時間が長く、
 ドミンはけしからんと、持っていたペットボトルを舞台に投げつけてやろうかと
 思ったほどです。

 終演直後の仙川劇場のロビーで、佐藤愛里奈さん(左)と、
 東京娯楽特区『熱海殺人事件』でヒロインを演じた木下紅葉さん(右)
 のお二人を記念撮影させてもらいました。
GEDV0123.JPG

 ドミンも、ヘレナとは信念が異なりますが、
 融通の利かない信念を振りかざすお坊ちゃんで、女性に対して免疫のない、
 これもまた、顔だけが取り柄のお馬鹿男なのですが、
 主演男優の背の高いイケメンの山田定世さんが嵌り役でした。

 東京娯楽特区は、20代の若手ばかりの劇団で、
 登場人物の多い本舞台のキャストをどう組むのかと心配しておりましたが、
 ベテランの春延朋也さん(アルクイスト役)と神保麻奈さん(乳母のナナ役)が
 有志として駆けつけてくれて、バランスのとれたキャスト構成になったと思います。

 春延朋也さんが登場されたとき、武田鉄矢かと一瞬驚きましたが、
 映画・TV・舞台で幅広く演じられてきており、
 実は我々にとっては必ず目にする空気のような存在の俳優さんだったのですね。
 → http://www.takaraipro.com/members/harunobe.html

 特に、黒澤明監督の遺作『まあだだよ』に出演されていたとは驚きで、
 私は春延朋也さんを大昔から目にしていたことになります。

〔舞台美術〕
 スクリーンの隅々まで綿密に構成しなければならずコストのかかる映画と異なり、
 舞台は、シンプルな道具立てで具体的構成を見立ててればよく、言い換えると、
 舞台上の具合的構成は、観劇者がイメージできるように記号化しておけばよいので、
 美術センスがあれば、貧乏劇団でも低コストで舞台美術は設計できるといえます。

 本舞台では、民藝の大道具担当でならした広岡凡一氏のセンスが面白く、
 室内劇では、3つの大きな金属アーチを配置して、出演者自身が移動しながら、
 あるときは窓、あるときは出入りするためのドア、
 あるときは3つを集めて狭い室内の壁に見立てるという自在さでありました。

 このような感じです↓
https://www.twugi.com/account/colorshonen/tweet/1214772918049050624

 また、第1幕の応接ロビーの受付電話スペースと、ミーティングデスク
 (といっても、大きさと形が異なるただの箱なのですが)を、
 第2幕の豪邸の一室では、乳母のナナがこれらをやおら移動し始めて、
 ヘレナが秘密技術の書かれた書類を燃やす暖炉に組みなおし、
 炎の見立ての照明効果を加えて、舞台の景色が一変したのには驚かされ、
 あまり舞台を見ない私にとっては新鮮で、本舞台の美術演出の最大の見せ場でした。

 その他、役者の演技とうまくタイミングを合わせて使用された
 電話のベル音、ドアのノック音、ロボットからの砲撃の光と音なども、
 物語のリアリティをうまくサポートしていたと思います。

〔シナリオと演出〕
 『R.U.R.』は、「人間とは何か」を、ロボットという虚構を通して、
 観る側に直接問いかけてきており、その問いかけは、後述するように、
 現在の我が国の状況を完全に予言しており、
 SF小説としての原作の構成が全く古さを感じさせません。

 本舞台は休憩なしの2時間を飽きさせなかったのですが、それは、
 原作の物語構成、舞台美術及びキャストに負うところが大きく、
 シナリオ(野月敦氏)と演出(広岡凡一氏)が、
 原作の意義を現代に繋げる独自の視点を提示するところまで練りあげている
 ようには見えませんでした。

 東京娯楽特区は、
 「古典や名作と呼ばれるような既存の戯曲を現代的に上演することを目的としている。
  広岡は自身が演出する場合も含めて舞台美術全般も担当。
  翻訳劇に関しては野月が新訳を作成。
  「今使う言葉で観客に」を基本コンセプトに舞台づくりに取り組む。」
  https://www.tokyogorakutokku.com/
 としているのですから、このコンセプトをもっと掘り下げるべきでしょう。

 ******

 本舞台は、観ているうちに、物語の流れが何となくわかってはくるのですが、
 肝心な点が十分に説明されないので、以下に指摘するように、
 SFならではの仕掛けが印象に残りません。

■登場人物とロボットの描写■
 本舞台では、
 R.U.R.社の幹部達の社長・経理・科学者・工場メンテナンス技術者等のロボット活用論者
 の社会的機能のステレオタイプな類型化(これは原作の狙いでもある)を、
 もっとメリハリをつけて行うことと同時に、
 本舞台でのロボットのイメージをもっと具体的に印象付けることが、
 必要と思うのですが、この点が決定的に欠けています。

 主要登場人物が象徴するステレオタイプな類型化された社会的機能は、
 人間的感情を含まない生産システムを象徴していますから、
 実は、本舞台で描こうとしているロボットとも重なってくるともいえるので、
 重要な要素なのです。

 ステレオタイプな社会的機能とロボットのイメージが明確なほど、
 彼らの間の恋愛感情という最も人間的でステレオタイプ化できない要素により、
 社会的機能とロボットが崩壊してしまう流れの中で、
 人間そのものの姿が浮かび上がるのではないかと思うのです。

 登場人物がメリハリつけて描かれていないため、
 ドミン・ガル博士・アルクイスト以外のR.U.R.社の幹部と
 乳母のナナの存在理由が伝わりません。

 R.U.R.社の幹部の人数をもっと絞り込み、
 狂信的宗教観に染まっているナナなどは、現代に対応するものがないので、
 無理に登場させる必要はなかったのではないか、とも思ってしまいます。

 ******

 第1幕では、幹部達が、R.U.R.社の商品としてのロボットのコンセプトを
 プロジェクターを使用して舞台に画像を映写しながら、
 ヘレナ(と観劇者)にプレゼンし、その中で、
 各人の信念を語らせ、ディスカッションをさせるという演出もあったかと思います。
 
 本舞台のロボットは、
 頭にはコンピュータが埋め込まれ骨格は金属で構成されるターミネーター型ではなく、
 生物学的に培養して得られた頭脳・骨格・外観が人間そっくりの生体型
 (iPS細胞で培養された臓器のようで、結構グロテスク)であることを
 印象付けるべきです。


 現代に生きる観劇者にとっては、ロボットといえば、
 ターミネーター型の方に馴染みがあり、何も説明されないと、
 どうしてもターミネーター型を想起してしまい、本舞台の第3幕で、
 ロボットを解剖する場面で、ロボットが恐怖することがピンとこないからです。

 また、R.U.R.社の商品としてのロボットの、
 「感情と生殖能力はないが外観は人間そっくりで、
  人間の労働を代替できる作業機能のみ備える」という仕様は、
 R.U.R.社の幹部達それぞれの思想・信条が色濃く反映されており、
 ヘレナにとっては許しがたいものである筈なので、
 この辺りは、冒頭のディスカッションで、
 各人の思想・信条とロボット仕様の対応するイメージを鮮明にしておけば、
 これが伏線となって、
 第2幕と第3幕の展開が分かり易かったのではないかと思います。

■人間にとっての「労働」に代わる価値■

 本舞台では、「労働」は、R.U.R.社の社長ドミンによれば、
 人間にとって守るべき価値のあるものではなく、ロボットに代替させて、
 人間は何か別の価値あることをやるべきだということになっています。

 アルクイストも、「労働」することに喜びを見出しており、
 そのことによってロボットによる殺害から免れるわけですが、
 だからといって、彼自身がそう魅力ある人物というわけではありません。

 ヘレナに至っては、人間であること自体に価値を見出しており、
 ロボットが人間並みになると、どのようなよいことがあるのかが、
 定かではありません。

 原作も、どうやら、
 人間にとって「労働」に代わる価値を提示してはいないようです。

 そうなると、この物語は救いのない不条理な最後にならざるをえません。

 何故ならば、第3幕で、ガル博士はヘレナとガル博士(の若い頃)に似せた
 感情と生殖機能を備える疑似人間を創り出してしまうのですが、
 ヘレナやガル博士程度の疑似人間では、
 本舞台で描かれた歴史を繰り返すのは目に見えており、
 疑似人間には、殺し合いと生殖で絶滅と再生を繰り返すという、
 不毛な未来しかないことになるからです。

■ロボット工学の3原則との関係■
 アイザック・アシモフは、ロボットSFのこの不条理な最後を救済すべく、
 「ロボット工学の3原則」を発明しました:
 〔第1原則〕
  ロボットは人間に危害を加えてはならない。
  また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視してはならない。
 〔第2原則〕
  ロボットは人間から与えられた命令に従わなくてはならない。
  ただし第1原則に反する命令はその限りではない。
 〔第3原則〕
  ロボットは自らの存在を護らなくてはならない。
  ただしそれは第1、第2原則に反しない場合に限る。
 (『わたしはロボット』(1950)(伊藤哲訳、創元推理文庫、1976年)

 アシモフ以降のロボットSFでは、『鉄腕アトム』も含めて、
 ロボットにはこの原則が適用されていることが前提になっており、
 それにも拘わらず、ロボットが殺人を犯したり反乱を起こしたのは何故か、
 という点がミステリーの最大の読みどころとなっていたりします。

 考えてみると、『R.U.R.』でも、当初の仕様のロボットは、
 感情を持たせず作業機能だけがある、いわば家電製品であり
 人間の制御範囲内で作動することになっているので、
 ロボット工学の3原則が内在しているといえますが、
 ロボットに感情をもたせたために、第1原則が機能しなくなったともいえます。

 従って、ガル博士が最後に創作した、
 感情と生殖機能をもつ2体の疑似人間ロボットは安全とは言えず、
 ガル博士は、これらの疑似人間ロボットに対して、
 さらにロボット工学3原則を付与しなければならなかったといえます。

 ******

 しかし、仮にロボット工学3原則を付与して、ロボットによる危害を回避しつつ、
 労働を作業用ロボットに代替させることができたとしても、
 「人間にとっての「労働」に代わる価値」が何なのかは、わからないままです。

 この点をどう考えるかについて、原作誕生から100年後に、
 本舞台を創作する若い脚本家・演出家には検討して欲しいところです。

 アイザック・アシモフは、ここがこの人の偉大なところですが、
 「人間にとっての「労働」に代わる価値」が何なのかについて、
 一つの回答を出しています。

 それは、ロボット工学3原則に拘束されるロボットが、
 次第に人間になりたいという意思をもち、立派な政治家になり、
 人間と恋愛して結婚してセックスをし幸福を得、遂には死を望み安らかに死んでいく、
 突然変異ロボットの物語『アンドリューNDR114』(1992)(創元SF文庫、中村融訳)
 に書かれていますので、ご一読されることをお奨めします。

《野暮な話》
 最後に、少し野暮な話をしてみます。

 『R.U.R.』は、感情と生殖機能がない人間そっくりのロボットを、
 人間の労働を代替する作業用ロボットとして普及させたら、
 人間は生殖能力が低下するまでに退化してしまった社会ができあがり、
 ある時、ロボット製造工場の不手際から、
 感情を持ったロボットが製造され普及しだしたところ、
 感情を持ったロボットは人間を支配するようになり、
 労働機能を失った人間を殺戮するに至ったという戯曲です。

 この100年前に創作された戯曲の舞台を、このたび、
 広岡凡一氏の演出で楽しませていただいたのですが、
 今となっては原作の定型的ともいえる物語が、
 現代の我が国の状況を予言してしまっているような気がします。

 現代の我が国の状況を図式的に説明してみると、2000年以降から、
 投資家に利益が還流することだけを目的にした、
 人間的要素のない単純なシステムである新自由主義経済が世界に普及、
 生産性の低い人間は安く使うとして、非正規雇用が拡大し、
 生産労働人口層の賃金を徹底的に下げ続けた結果、

 生産労働人口層の結婚と育児を成立させるための経済基盤が失われ、
 生産労働人口層の出生率が、人口全体が減るほでまでに低下し、
 年金制度の崩壊が加速し、
 高齢人口層は生きていること自体が否定されつつある一方で、

 TPP・FTA(特に食・公共インフラの民営化)により、
 日本人は今後、生存に不可欠な食の質が低下し、
 長期的に健康が損なわれるという大きなリスクがあり、

 なにも変なロボットを普及させなくても、
 日本人全体が真綿で首を絞められるがごとく死に絶えていく過程にある
 と言っても過言ではないように思います。

 「桜を見る会」「モリカケ」「TPP・FTA(特に食・公共インフラ民営化の問題)」
 「年金」「防衛」「労働環境」「公教育」「研究費削減」「統計不正」
 「政権のメディア管理」など、ありとあらゆる分野で、
 政権中枢にある官僚の質が目も当てられないほどに低下し、
 多くの日本人が思考停止してしまっている状況は、

 『R.U.R.』の舞台上で繰り広げられる、
 信念に基づくとして何の疑問もなく危険なロボットを製造する思考停止した人間と、
 無用な人間を躊躇なく殺戮していまうロボットでできた世界の、
 直接的な延長線上にあるとしか思えません。

 野暮を承知で言っておこうと思いますが、
 現代を生きる若い舞台の創作者たちには、こういった身も蓋もない現実にも、
 アンテナを張って、原作の現代的な意義を考えて欲しいと思っています。
posted by Dausuke SHIBA at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台・ライブ
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