2020年04月18日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)

布マスク2枚を全住所に466億円かけて配布する

 この国の首相は、戦後教育をたっぷりと受けて育っている筈ですが、
 コロナ禍下の政権・メディアの周辺のあまりにも無責任な状況が、
 太平洋戦争敗戦前後の日本の状況と瓜二つであることを見るにつけ、
 日本人に自分の頭で考えて責任を真っ当することについて
 戦後教育は、全く機能しておらず、壮大な失敗であったと、
 しみじみと感じざるをえません。

 ******

 気が滅入る話題が続きますが、春の温かさと共に、
 友人からいただいたガリレオ温度計の一番下のガラス球が沈みました。
KIMG0093.JPG
 まるで理科の教材ですが、季節を感じるインテリアとして癒されます。

■前回の復習■
 前回は、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文の内容について、
 まとめてみました。

 本論文の概要は以下の通りです。
〔題 目〕「日常の現象から理科の見方・考え方を養う:
      水の表面で起こる現象の理科教育教材としての提案」
〔掲載誌〕 山口大学教育学部研究論叢(第69巻 193頁〜202頁 2020年1月)
〔著 者〕 村上清文・和泉研二

 論文の内容と概要は、こちらからみることができます↓
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/metadata/D580069000023

 私の理解では、本論文は以下のような内容です。

日本の理科教育の目的が、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方を養う」ことと、
 A「自然を愛する心情を養う」ことにあるが、
 文科省は、Aについて、
 ・教員に必要な具体的な教材を提示しておらず、
 ・指導要領でも抽象的な努力目標的解説に留めている。
 
 そこで、本論文は、以下の要旨A及びBについて論考しています。
 A.Aに対する教員のための具体的な教材として、
   水に関係する日常の現象を教材とする理科の見方・考え方を提供する。
 B.Aの観点と総合的に密接不可分に結び付くと考えられる
   日常の現象を包括する「環境」概念を教材化する方向性を検討する。

 論旨Aと論旨Bが、ほとんど関連付けられずに独立に展開されるため、
 私としては、論旨Aが論旨Bの中でどう関係づけられるかに興味があったので、
 論文全体としては若干物足りませんでした。

 しかし、要旨Bについては、著者の以下の問題意識が提示されています。
 
 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」し、
 「喜び」と「愛」は一体であり、
 これらがかけがえのないことであるとの認識の上で、理科教育では、
 「目標として「自然を愛する心情」を養うことが受け継がれてきた」が、
 その一方で、その自然環境に対する日本人の問題意識は薄かった。

 そこで、著者は、自然環境に対する@「科学的な見方」を組み込むことで、
 A「自然を愛する心情」を養うことに繋がる、
 @都にを統合した「理科の見方」を構成できると考えます。

■「自然を愛する心情」とは■
 本論文では、論旨Bは以上の問題意識の提示に留まっており、
 著者のさらなる深堀を期待したいと思います。

 今回は、本論文の著者の問題意識に沿って、
 私なりに論考をさらに深堀(大して深くはなりませんが)してみようと思います。

《「自然を愛する心情」における「自然」》
 「自然を愛する心情」における「自然」が何を意味するのかを少し考えてみます。

 著者の指摘する
 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」
 していることは、既にステレオタイプの日本文化論の文脈で、
 いろいろなところで言われることですが、
 ここに登場する「自然」を定義しようとすると意外に難しいことがわかります。

 日本人はは昔から自然環境に恵まれているとされますが、
 ここでいう「自然環境」は、全くの手つかずのままの原生林のようなものではなく、
 多くの場合、人間が手を加えて管理した、
 相当に加工度の高い自然環境であると考えた方が良いと思います。

 全くの手つかずのままの原生林も、我が国の場合には、かつては、
 人間が遠目で見る限りは、四季の移り変わりに伴い、
 風・雨・雪の小道具を配した中で、木々や花の色彩の変化の美しさを
 十分に愛でることができたといえるでしょう。

 しかし、我が国の土木工事の歴史は、おそらく農業の始まりに遡るほどに古く、
 現代に至っては、全くの手つかずのままの原生林などほとんどなく、
 山奥をどこまで進んでも、人間が生活する家屋が絶えることはなく、
 それでも山林が管理されているうちは人工的とはいえ、
 山林全体の秩序感がある種の美しさを感じさせますが、
 近年進みだした管理することが放棄された山林は、
 ただただ荒涼感ばかりが漂うことになります。

 このように考えると、それでも日本人が「自然を愛でる」というのであれば、
 「自然を愛する心情」における「自然」とは、
 原生的な美しさを提供してくれる「自然」とは異なると考えられます。

《極端な例を考えてみる》
●例1●
 例えば、地球を含む太陽系の星々、さらに天上の星座を構成する銀河系の星々、
 さらに、肉眼ではもはや見ることができない銀河系外の星々ですが、
 これらも「自然」といえば「自然」であり、遠目には美しいといえますが、
 地球上の生態系など望むべくもないことを考えると、相当に荒涼感が漂います。
●例2●
 世界には砂漠で生まれて死んでいく多くの人々がいますが、彼らは、
 日本列島に生まれて死んでいく日本人とは全く異なる人生観・自然観を
 持つことでしょう。
 また、ロシアの大地に広がるツンドラや、南極の氷原も、
 シベリア鉄道の周辺や南極基地の周辺以外は、
 手つかずのままの自然という意味では、地球上で最大規模を誇るように思えます。

 このような砂漠・ツンドラ・氷原は、
 「自然を愛する心情」における愛でる対象となる自然といえるのでしょうか?
●例3●
 原爆投下後の広島や長崎は「75年間は草木も生えない」といわれていましたが、
 実際にはそのようなことはなく、草木は逞しく再生し、
 広島市は、私が広島大学の学生だった1970年代には、
 緑生い茂る美しい都市になっていたのでした。

 チェルノブイリ事故や福島原発事故の跡地は今どのような状況なのでしょうか。

《「自然を愛する心情」とは》
 以上のような、天体、砂漠、ツンドラ、氷原、放射能汚染地は、
 「自然を愛する心情」で愛でる対象となる自然といえるのでしょうか?

 天体・砂漠・ツンドラ・氷原・放射能汚染地のような、
 人間にとって過酷な環境は、よく言われることですが、
 欧米人は、人間が利用できるように克服すべき対象と考えますが、
 日本人は、その中に宿る小さな自然を愛でる対象と考えるのだろうと思います。

 例えば、アスファルトで覆われた都会の道端に咲く雑草としてのタンポポを、
 欧米人は単に刈り取るべき雑草と考え、
 日本人は小さな自然として愛でると考えられます。

 以上のように考えると、
 「自然を愛する心情」における「自然」とは、外形的な自然環境ではなく、
 日本人にとって、そこに「生命」が宿ることを感じることができるある種のものを
 「自然」として理解しているように思えます。

 また、日本人は天体である月自体を兎に見立てて月見をして愛でます。

 月面は、「科学的な見方」により、
 地球上での自然環境に相当する生命が存在せず、
 荒涼とした無機物質の広がりであることが既に常識とされていますが、、
 それでも、日本人は月を愛で続けています。

 ここまでくると、日本人は、
 ・相当に加工された自然環境、
 ・そこに「生命」が宿っていると感じられる環境、
 ・さらに、たとえ「生命」が宿っていそうにない環境でも、
 日本人はそれらを「自然」として愛で得るということになります。

 このような日本人の「自然を愛する心情」は、
 たとえ「生命」が宿らない自然ですら愛でる対象であることになり、
 これはもう、
 万物に神が宿るとする日本人の宗教観と密接不可分な心情である
 と考えなければ理解できないことになります。

《「自然を愛する心情」と対極にあるもの》
 こうした日本人の「自然を愛する心情」は耳障りの良い響きをもちますが、
 一方で、日本人は、どうして、
 ・日本国中くまなく50基強の原子力発電所を平気で建設し、
 ・原発事故後の汚染水を平気で海に流そうとし、
 ・日本の伝統農業や水環境を壊滅させかねない、
  水道の民営化、種苗法の改正、TPP協定の締結等を平気で行い、
 ・コロナ禍の下、日本国民の生命が脅かされている状況で、
  オリンピック開催を最優先にした政策を平気で進められたのか、  
 これらの「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる、
 日本人による利権のための躊躇なき行動をどう説明したらよいのか。

 文科省と教育関係者は、「自然を愛する心情」を教育の基礎として認識するならば、
 その対極にある「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる上記の行動を、
 文科省に隣接する官公庁が率先して行うことも視野に入れた上で、
 教育行政なり教育研究なりを語るべきではないかと思うのです。
 (前川喜平氏くらいの優秀な面従腹背官僚であれば視野に入れているか?)
 
■教育の基礎としての「自然を愛する心情」■
 以上のように考えると、「自然を愛する心情」とは、
 理科教育に限らず、全ての教科、あるいは教科に分化する前の段階で、
 教育の基礎となる高度に哲学的な命題であり、
 これを真剣に考えることは、現代の我国の深刻な問題を考えることに直結し、
 日本人が一生を通して自らの頭で考えるに値する命題であろうと思われます。

 そして、「自然を愛する心情」を考えようとすれば、
 「科学的な見方」だけではなく「哲学的」「歴史・文化的」「法政治的」「芸術的」
 等の様々な観点からの見方が必要であることになります。

 ここまで大風呂敷を広げると、「自然を愛する心情」を教育の場に取り込むには
 何世紀もかかりそうな気もしますが、
 それほど大上段に構える必要もないと思っています。

 教育の場では、「自然を愛する心情」は、
 先生方が、その高度な哲学的命題に常時取り組むご自身の姿を
 生徒に見せ続けることで、
 生徒の頭と心に刷り込まれていくのではないかと思っています。

 即ち、「自然を愛する心情」のような抽象的概念は、
 先生方が悪戦苦闘して取り組む姿を通して、
 自分の頭で物事を考えるとはどういうことなのかを含めて、
 生徒の頭と心に刷り込ませていくしかないのではないかということです。

 現状のようなブラック企業まがいの教育環境で、
 先生が自分の頭で何か考える時間も余裕もなく、
 生徒の面前で、神戸の同僚教師の醜悪ないじめ問題のような
 救いようのない教育崩壊を見せてしまうような余裕のなさでは、
 到底「自然を愛する心情」など教育の過程に載せられる筈がありません。

 ******

 「自然を愛する心情」を教育の場に取り込むための基盤は、
 まずは、全教科の先生方が共同して、
 「自然を愛する心情」を(先生方が)学ぶのに有用な文献リストを作成する
 ところから始めるのもよいのではないかと思います。

 典型的には、日本人の自然を愛する心情や宗教観を文字によって表現してきた
 奈良・平安時代から現代にいたるまでの代表的な文学・戯曲・思想・歴史書を
 リストアップする作業を1年程度かけて行う
 (図書室の司書の先生が活躍できるのではないでしょうか)。

 ここには、手塚治虫の『火の鳥』等の漫画や、
 小松左京の『日本沈没』や欧米人の自然観を体感できるSFも含めて、
 ジャンルを問わず収集することで、子供との接点を担保できると思います。

 その後、先生方の興味に応じて、リストアップされた中から選んだ教材を、
 1年かけて研究し、自然を愛する心情の観点から、
 (理科の先生が小説に、国語の先生が科学史に挑戦してもいいでしょう)、
 その成果を、生徒や親やOB・OGとなったかつての生徒も集った中で
 学内研究発表して意見交換する、なんていうこともありではないでしょうか。

 そのような先生方の息の長い継続的な活動を見せ続けることによって
 生徒にとっては、小学校の6年間、中学校の3年間の、
 節目節目の発達段階において、
 先生方自身が成長し、先生方が「科学的に物事を考える」姿に接することで
 「自然を愛する心情」を発見的に学び、
 生涯に渡り自分の頭を使って物事を考えることの意味を感じ取る
 ことが期待できるのではないかと思うのです。

 そして、現代の「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる、
 上述した利権まみれの日本人の在り方について、
 自分の頭で真剣に考えることに繋がるのではないかと思っています。

 ******

 以上が、村上先生の論文を読んだときに私なりに考えた、
 「自然を愛する心情を養う」ことの意味でした。

 次回は、「自然を愛する心情を養う」から少し離れますが、
 算数・数学、物理・化学教育において、教科の縦割り的・縄張り的な教え方を、
 もう少し合理的・本質的な教え方にできないものかについての、
 私の経験的持論を語ってみたいと思っています。
posted by Dausuke SHIBA at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育
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