2020年04月25日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ

 『新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか
 コロナ禍の下で、
 厚労省管轄の医療実務機関と文科省管轄の大学医学研究機関の協力関係が
 十分でないことがコロナ対策の実効を妨げる一因とも言われています。

 これはお役所事業の徹底した縦割・縄張意識に起因しますが、
 お役所事業である教育の分野でも、科目間の縦割・縄張が貫徹され、
 生徒が柔軟に理解することを妨げ、
 自分の頭で考えることができない日本人を再生産し続けている
 大きな原因の一つではないかと昔から思っています。

******、
 
 先の2回のブログ記事では、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文について、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)』では論文の内容を、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』では、
 論文の主テーマたる「自然を愛する心情を養う」ことを
 理科教育に組み込むことについて、私の考えをまとめてみました。

 今回からしばらくは、『理科教育』から少し離れて、
 私が1960〜1970年代に実際に受けた学校教育を通じて、
 強く感じていた、教育の縦割・縄張の教育効果上の非効率について
 経験論的にお話ししてみます。

■算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ■

《鶴亀算を発見的解法で教えるべきではない》

 小学生の時に、算数の「お話問題」(今は「文章題」というようですが)
 の宿題を家で解いていたところ、まったくわからなくて、
 夕方の戸越銀座での買い物から帰ってきた母が
 「どれどれ」と言って見てくれたのですが、
 「これ鶴亀算ね」「こちらは旅人算ね」と言いながらスラスラ解いてしまい、
 「問題を解く」という人間の行為を生まれて初めて目の当たりにして、
 驚愕したことがあります。

 太平洋戦争前に小学校教育を受けた母の世代は、
 「鶴亀算」「旅人算」等の、今では特殊算と呼ばれる算数の問題解答技法
 (以下「算術」と名付けておきます)を学校で教えられていたのです。

 しかし、おそらく今もそうだと思うのですが、
 太平洋戦争後の小学校教育では算術は教えずに、
 戦前は算術でスラスラ解ける「お話問題」を、算術を使わずに、
 生徒に発見的に解法を導かせようとする算数教育
 (以下「発見的解法教育」)を行ったのだと思います。

 発見的解法教育については、例えば、以下の論文又は記事:
 『算数教育における文章題指導のあり方に関する研究
  −知的自律性・学び合う共同体の観点から−
』や、
 『小6算数「鶴亀算」指導アイデア
 に紹介されているようなことをイメージしています。

 この算数の「お話問題」でしか使わない算術を発見させるために
 私は、先生に発見的解法教育(相当に原初的だったのでしょうが)
 を試されたわけで、結局のところ、
 徹頭徹尾、理解できない状態から抜け出すことができず、
 算術教育を受けた母がうらやましいと思いつつ、
 何も得るものがないまま悶々とした小学校時代を過ごしたのでした。

 しかし、中学校に進学すると、数学で連立方程式を習って、
 あっけなく「お話問題」が解けてしまうことに出会い、
 あの苦しんだ「お話問題」の発見的解法教育とは何だったのか、
 という思いが今だに忘れられません。

《算数とはどのような教育か》
 私は、教育とは、人類の過去の知的資産のエッセンスを、
 生徒に追体験させて、
 人類の未来に発展的に引き継いでいく糧とする営みと考えています。

 その中で、算数とは、生徒にとって、
 ・この世には「解かなければならない問題」というものがあり、
 ・この世には「その問題を解く方法」というものがあるということを
 この世に生まれて初めて突き付けられる教育的営みである
 と考えることができます。

 その「解かなければならない問題」の典型が、
 算術における『鶴亀算』と言ってよいと思います。

《算術としての鶴亀算》
●問題●
 鶴と亀があわせて10匹います。
 足の数を数えると28本です。
 鶴と亀それぞれ何匹いますか。
●解答●
 @10匹の全部が亀とすれば足の数は40本;
 A10匹の全部が亀とすれば足の数は12本過剰:
 B10匹の亀のうち1匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×1=2本減る(過剰が10本になる);
 C10匹の亀のうち2匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×2=4本減る(過剰が8本になる);
 D10匹の亀のうち3匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×3=6本減る(過剰が6本になる);
 E10匹の亀のうち4匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×4=8本減る(過剰が4本になる);
 F10匹の亀のうち5匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×5=10本減る(過剰が2本になる);
 G10匹の亀のうち6匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×6=12本減る(過剰が0本になる)
 (順列・組合せを勉強するときに、べたに数え上げることができると、
  法則性をよく理解できることがありますが、その作業に似ています)

 即ち、10匹の亀の足の過剰数が0になるまで置き換えられた鶴の数は、
 過剰数(12)÷(亀と鶴の足の差2)=6匹
 であり、亀の数は、     10−6=4匹
 ということになります。

 この典型的な問題と解法を(理屈はともかく)頭に叩き込めば、
 鶴亀算が適用できる問題は解けるようになるということになります。

《算数としての鶴亀算》
 このように、
 ・この世には「解かなければならない問題」というものがあり、
 ・この世には「その問題を解く方法」というものがある
 ということを鶴亀算を典型事例として実感させ、
 ・さらに1つの典型事例を覚える(望ましくは理解できる)と
  それを応用して類似の問題を解くことができる
 ことを追体験させることが、
 算術を題材とした算数教育であると思うわけです。

 この実感と追体験に基づいて、生徒が、
 「解かなければならない問題」は他の教科にもあり、
 「その問題を解く方法」がその教科なりに蓄積されていることを
 発展的に学んでいくことが、
 学校教育の教科学習の側面にはあると思います。

《数学として抽象化する過程の題材としての鶴亀算》
 鶴亀算は数学的には、亀の数をx、鶴の数をyとして、
   x+ y=10
  4x+2y=28
 なる連立方程式を解けば、何の苦労もなく解けることを
 実感することが、数学教育の入り口となるはずです。

 そして、考察する対象を変数に置き換えて、
 変数の間の四則関係を考慮して問題を解くことは、
 代数・幾何の方向では、ベクトル、行列、線形代数等に、
 解析の方向では、微分積分、ベクトル解析等に繋がり、
 最も重要な「解かなければならない問題」としての
 物理・化学に繋がることになります。

 例えば、上記の連立方程式は、行列で表示すると、
式1.jpg
 となり、ベクトルと行列で、
式2.jpg
 と表現すると、以下のようなベクトルの線形変換を表現する式:
 
 となり、高等数学まであっという間に展開されることになります。

《算数教育の問題点》 
 算数の「お話問題」では、
 算術で(戦前に生まれた母も)解ける問題しかでないので、
 公教育では、それらの問題が解ける程度の算術を教えるべきだと思います。

 そのためにある典型的な事例についての解法としての算術を
 (望ましくは理解して、理解しなくても暗記してでも)覚え、
 その算術を、具体的な「お話問題」に当て嵌めて、
 完全に当てはまる場合、少しアレンジして当て嵌める場合
 等を経験することで、
 「算数の問題は解くことができる」ということを体験させること
 が重要なのではないでしょうか。

 法律は一種の典型的事例に対する決め事であり、
 現実の事件に対して、どの法律を、どうアレンジして当て嵌めるかを
 瞬時に判断しなければならないで、
 算術を使って問題を解くことは、法律の実務に重なります。

 「お話問題」の解法を、先生が生徒に対して、
 発見的に誘導するなどという作業は、生徒からみれば、
 単に教育者の実験材料にさせられているだけで、
 教育者の自己満足のためとしか思えません。

 生徒からみれば、発見的解法では、
 「問題を確実に解くことができる」ことが実感できないので、
 いつまでも算数を学ぶことの達成感を持つことができません
 (少なくとも私はそうでした)。

 また、公教育の先生方は国公立の一流大学を卒業されている場合も多く、
 これらの先生方で、中学受験された方は、
 後述するように、中学受験のために算術を頭に叩き込んで、
 算術の達人であるような場合も多いのではないでしょうか。
 
 ご自身が、算術でスラスラ解けることを実体験していながら、
 生徒にはそれを教えずに発見的解法を適用することに拘るところが、
 「小学校算数」が算術とも数学とも拘わりを持たない、
 縦割・縄張的で閉鎖的な蛸壺教育になっているように見えるのです。 

《算数で算術をどの程度教えるべきか》
 算術で解ける問題には限界があり、
 より広範な問題を解くための方法として数学が存在する、
 ということを経験させることが次の段階の教育であると思います。

 ですから、
 算術それ自体を子供の能力の選別に使うほどに精密に教え込むことは
 全く意味がないと考えます。

 このブログを書くに当たり、現代の教育で算術がどう認識されているかを
 ネットでざっくりと調べたところ、算術は、
 やはり小学校では教えられておらず、専ら塾で教えられていて、
 中学受験の必須アイテムとなっていることがわかりました。

 塾の整理によれば、算術を構成する特殊算は20種類以上あるようで
 (中学受験:特殊算は何種類ある?算数の文章題の見分け方)、
 それはそれで趣味で勉強する分には面白いと思いますが、
 中学受験のために、小学生が、
 算術の技法を身に着けるための勉強を必死に行うのは、
 どう考えても不毛でしかないと思います。

 そのような不毛な勉強をさせるのであれば、
 読書しなければ解けない問題を課して、
 小学生の読書の時間を増やす方が教育的なのではないでしょうか。
 
 大学を卒業し、難関の弁理士試験を一発で合格して、
 社会経験を積むことなくそのまま弁理士をする方も多くいらっしゃいますが、
 その中には、多くの解法パターンを頭に詰め込み、
 現実の事案に対して当て嵌る解法パターンを選択するだけで、
 既存の解法パターンで解決できなければそれ以上考えずに、
 顧客に「どうしますか?」と丸投げする弁理士が少なからずいます。

 上記の問題は弁理士だけの問題ではなく、
 桜を見る会・森友問題・アベノマスクなど、
 近年の政治家や高級官僚が自分の頭で考えているとは
 とても思えない状況を見るにつけ、
 中途半端にならざるを得ない発見的解法教育か
 解法パターンをどれだけ詰め込んでいるのかが能力選別の基準のような
 算術詰込教育しかないような算数教育は見直さなければならないと思います。

 次回は、高校における数学・物理・化学の縦割・縄張的教育について
 考えてみます。
posted by Dausuke SHIBA at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育
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