2016年08月28日

『後妻業の女』モダンなクライム・ストーリー

 『シン・ゴジラ』を見た映画館での予告編で、
 シワクチャ顔をどアップにした大竹しのぶが、
 関西弁で啖呵を切る場面が目に飛び込み、
 思わず拒絶反応が体中を駆け巡ったのですが、
 公開1週間前に、お客様から試写券をいただき、
 怖いものみたさで、地下鉄九段駅の近くの
 日本教育会館に入っている一ツ橋ホールに出向きました。

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 開場15分ほど前に着いたのですが結構な長蛇の列。

 既にご主人が定年をお向かえになったと思しきシニアカップルと、
 衰え知らずのかしましシニア女性軍団と、
 若いカップルがちらほらとみえるのですが、
 大昔の試写会のような厳めしそうな映画マニアらしき人は、
 全くみあたりません。

 ご婦人方は、試写会のためにお洒落しており、
 試写会の何とも言えない特別な雰囲気は、平和でいいものです。

 開場して上映が開始されるまでの30分間、
 ホールのロビーの結構数のある座り心地のよいソファに、
 主にご婦人方なのですが、
 持ち込んだコンビニ弁当を食される姿が、
 迫力がありすぎともいえるのですが、とても幸せそうです。

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 さて、映画ですが、どろどろの愛憎劇かと思いきや、
 まったく趣の異なる、
 からっとしたモダンなクライム・ストーリーでした。

 試写券の表面を引用しますので、雰囲気を感じてみて下さい。
20160818『後妻業の女』試写券2.jpg

 トヨエツ演じる詐欺師の結婚相談所所長が、
 芯まで悪女の大竹しのぶを使って、シニア見合いを催しては、
 金はあるが愛に飢えている老人に取り入り、
 公正証書遺言を書かせて、あの世に送り込み、
 親族が茫然としている前で全財産を乗っ取っていくという、
 どんより感のある痛快なストーリー。

 1件1件、結婚→死別→相続 とけじめつけていくならまだしも、
 ある老人とは正式に結婚し、
 並行して、他の老人の内妻となり、
 さらに並行して、新しい老人と付き合いだすという展開で、
 それぞれの老人の親族を巻き込んでのドロドロ話となっていきます。

 大竹しのぶが40代から六十路に入った現在までに
 8人の老人を食い物にして、
 現在9人目にチャレンジ中という設定なのですが、
 過去のあの世にいってしまった、
 どう見ても色ボケ金持ちにしか見えない老人を
 六平直政、森本レオ、伊武雅刀、津川雅彦といった芸達者が、
 楽しそうに演じています。

 津川雅彦の遺族で遺産を乗っ取られた娘(尾野真知子)が、
 一癖ありそうな私立探偵(永瀬正敏)と共に、
 トヨエツと大竹しのぶをあと一歩まで追い詰めるのですが、
 惜しくも逃げ切られるというところで終わっています。

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 先般試写会で見た『64−ロクヨン−』もそうでしたが、
 本作も日本映画の俳優達の演技を堪能できます。

 大竹しのぶは『青春の門』(1975)で清純な炭鉱の娘役で映画デビューして、
 大地が揺れるかと思うほどの大根足で走る可憐な姿が、
 今も目に焼き付いているのですが、
 あの初々しかった娘が、年取ってこんなになってしまったかと、
 本当にそうではないかと思えるほどの、
 生活力というか、生きる力に満ち溢れた悪女を怪演しています。

 なにしろ20代から実年齢の60代までを演じており、
 20代はそれなりにそう見えるのですから、大竹しのぶも、
 80過ぎて10代を演じた森光子の化物女優域に入ったのかもしれません。

 詐欺師は、顔がよく才覚があると、こんなシビアなことになってまでも、
 やめられないほどの面白い稼業になるんだと思わせる
 トヨエツは相変わらずかっこいい。

 年老いた父親をほっぽときながら、遺産がないと知ると執念を燃やして、
 怪獣大竹しのぶに立ち向かう迫力ある美女を尾野真千子が好演しています。
 美人がきつく怒り出すと本当い怖い。

 『64−ロクヨン−』で壮絶な演技をした永瀬君も、
 これらの中に入ると、やや影が薄くなるのも仕方ないと思えます。

 『さよなら小津先生』の突っ張り女子高校生から、
 『のだめカンタービレ』の音楽大学生のバイオリニストを経て、
 成熟した女性を演じるまで、順調に育っているという感じの
 美人なのかそうでもないのか微妙な水上あさみが、
 トヨエツを弄ぶかのような水商売の女を違和感なく演じているのは、
 何となく嬉しい。

 でも、毎度書きますが、何で鶴瓶を使うのでしょうね。
 この人、地で演じているので全然怖さがでないんですよ。

 稀代の悪女である大竹しのぶをさらに騙そうという竿士なのですから、
 むしろ、桂三枝(今は桂文枝で偉くなったんですね)なんかの方が、
 よかったのではないかと思います。

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 本作は、かつて松竹で撮っていた森崎東監督の『喜劇女は度胸』などの
 一連の喜劇に通じる知的なモダンさを感じるのですが、
 人情の要素が入らない、要は、相当にハードボイルドなので、
 からっとしていて、後味が非常によいと思います。

 鶴橋康夫監督はTVを主戦場にしているようですが、
 名前は記憶にあるのですが、演出したドラマはあまり見ていないようです。

 ウィーキペディアでリストを見ていたら、
 『龍神町龍神十三番地』(2003)と、
 『天国と地獄』(2007)(黒澤作品のリメーク)だけ見てました。

 『龍神町龍神十三番地』は、船戸与一原作で、
 佐藤浩一、柴田恭兵、高島礼子、宇崎竜童、佐野史郎という豪華キャスト
 のハードボイルドミステリーで面白かった記憶があり、
 『天国と地獄』も佐藤浩市主演でしたが、酷かったという記憶があります。

 音楽も、オリジナルなのか否かよくわからなのですが、
 軽いジャズテイストで本作にモダンさを与えています。

 音楽の羽岡佳『チームバチスタ』も担当しているのですね。

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 でも、本作にでてくる老人たちは、おそらく、
 高度成長時代は若手のモーレツサラリーマンか、地主の息子で、
 バブル時代は管理職、成り上がり経営者又は成金地主で、
 老後は、後妻業の女に狙われようかという金持ちばかりです。

 先の見えない現代、この映画を観て、
 自分に引き寄せて心底楽しめる人、どれだけいるのでしょうね。

 生真面目が度をすぎている気配もある今、
 こんな悪人と悪行を、肯定的に描くのはけしからん、
 なんていう雰囲気がでてもおかしくないような気もします。

 まあ、そんな人達は、そもそもこんな映画を、
 わざわざ映画館でみないでしょうから、
 本作は、TV放映されたときに何か物議を醸すかもしれませんね。

 楽しみですね。
タグ:トヨエツ
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2016年08月13日

『シン・ゴジラ』あまりに発想が貧困ではないか(その2)

 最初にアンギラスが上陸してきたので、
 なんだ、米国版と同じ、予告されない怪獣が登場して、
 ゴジラと闘うのかと思ったり、
 日常の都市風景にゴジラが溶け込んで破壊行動するなど、
 とても面白い部分もあったのですが、
 以下の点がどうにも発想が貧困で見ていて辛かったです。

●何故、ゴジラを攻撃せず都民を逃がすことを選択肢に入れないのか?●

 官邸での会議ですったもんだした挙句の選択肢が、
 「捕獲」「駆除」「排除」するか(だったかな)のどれかしかない、
 という設定で、そのために自衛隊がゴジラに対して、
 ミサイル攻撃を含む銃撃戦闘をする方向にまっしぐらに進むことになります。

 しかし、選択肢を検討する時点で、
 ゴジラの発生原因と巨体を維持するためのエネルギー源などが検討され、
 ゴジラは体内に原子炉を有する歩く原子炉に等しい、
 という推測が関係者に共有されています。

 そうであれば、攻撃によってゴジラが傷ついた時に、
 体内原子炉の制御不能に陥る可能性がある、
 戦車・ミサイルなどによる砲撃を行う選択肢はありえないでしょう。

 理屈をつけて、ゴジラの顔と足だけを攻撃しますが、
 このような攻撃は、東北大震災で原発事故を起こした原子炉に、
 ミサイルを撃ち込むようなもので、仮に、
 ゴジラの脳が破壊されて、体内原子炉の制御が効かなくなる、
 足が折れて倒れた拍子に、体内原子炉が損傷するなどしたら、
 大変なことになることくらいは、
 東北大震災の原発事故で学習済という前提くらいはつけろよ!

 過去のゴジラ映画の設定は引き継がなくてよいけれども、
 東北大震災=原発災害は事実としてあったという設定にして、
 登場人物に、
 ゴジラ災害と原発災害の類似性を検討させてもよいはずです。

●何故、思索の面白さを表現しないのか?●

 筒井康隆が、かつて、
 SFとは思索小説(speculating fiction)だと言っていますが、
 『日本沈没』などはその典型です。

 『シン・ゴジラ』は、ゴジラ上陸の非常事態に、
 現状の日本国の制度がほとんど機能しないことを
 シミュレートしているようですが、
 そんなことは、東北大震災、熊本大震災をみれば、
 シミュレートするまでもなくわかり切ったことで、
 それをわざわざ再現して見せられても全く面白くありません。

 ゴジラを移動するに任せて、その上で、
 それでは、1000万都民をどう避難誘導できるのか、
 のような設定をして、シミュレーションする方が、
 よほど思索的ではないでしょうか?

 新幹線やJR車両のああいう使い方を見せるのでなく、
 時計並に正確なダイヤ運行システムや、
 災害時にあっても規律正しい行動をする国民性、
 世界有数の輸送産業を有する我が国の特性を生かした、
 1000万都民の脱出方法はいくらでも考えようがあると思うのです。

 ゴジラを止める時間稼ぎの手立てとしては、
 今回のゴジラが従来以上に単にゆっくり歩いて移動するだけ、
 という生態を考慮すると、足元に大量の潤滑剤を撒いて、
 足が滑って歩けなくなるという設定も安上がりで面白いかもしれません。

 我が国には、優秀な界面活性剤メーカーが多数あるので、
 頑張ってもらえばよいでしょう。
  
 結局、『シン・ゴジラ』は、ゴジラと現実の最新鋭兵器の対決を見せるために
 論理的でも思索的でもない安易な設定をしているだけのように見えます。

 おそらく、放っておけば、ゴジラは日本中の原発に立ち寄って、
 放射性廃棄物や核エネルギーそのものを食い尽くし、
 やがて放射能が対外に漏れ出し相当危険な状態になると思いますが、
 そうならないように、日本中の原発をまず止めて、
 AI、ロボットを活用して放射性廃棄物をかき集めて、ゴジラを海に誘い出し、
 例えばアメリカが核実験を繰り返して、いまさら大規模な核戦争が起こっても、
 もはやそれ以上環境が悪化しないような場所で、
 日米共同で対ゴジラ核戦争をするのもありえるのではないでしょうか。

 どのみち、そのようなことをすれば、ゴジラが超進化を遂げて、
 日米軍は全滅し、ゴジラは核エネルギーを求めて、
 ロシア、フランスに彷徨い進むという筋になるでしょう。

 しかし、そのことによって、日本から核は一掃され、
 核汚染されなかった東京に避難民は戻り、
 物理的な破壊から立ち直るべく明日を生きていく、
 などいう感動的な筋もありえましょう。

 世界中の核エネルギーを食い尽くしたゴジラは、さらに超進化を遂げて、
 最終のエネルギー源たる太陽に向けて飛翔していく
 などという『バルンガ』のような終結もあるかもしれません。

 絶対的な能力をもつ宇宙人がきただけで、
 世界に平和が訪れる『幼年期の終り』の逆説も参考になるでしょう。

●政治家のステレオタイプ表現がステレオタイプすぎないか?●

 政治家の俗物性、官僚機構の硬直性、システムの属人性などは、
 黒澤明、山本薩夫などの超一流監督が演出し、
 佐分利信、芦田伸介、滝沢修などの超一流俳優が演じたせいで、
 鼻をつまみたくなるような俗物かつ冷血ぶりを漂わせるというのが、
 一つの典型的な描き方(ステレオタイプ)として定着しています。

 最近でも『Doctor.X』の病院関係者の描き方がそうでしょう。

 しかし、ステレオタイプの中にも、
 演出・俳優の見せ方には工夫と個性があり、
 例えば、「Doctor.X」の毒島院長(伊東四郎)、鳥居教授(段田安則)
 など、かつての『白い巨塔』の頃に比べると現代的な味付けが施され、
 実に面白いと思うのです。

 『シン・ゴジラ』に描かれた政治家・官僚に何か新しさがありますか?

 遠い昔、我が国の首相が「人命は地球より重い」と言って、
 ハイジャッカーと取引をしましたが、
 当時、他国では絶対にしない行動だ、などとして、
 功罪相半ばであるとの報道がなされました。

 最近でも、東北大震災の原発事故で、自ら現場に赴き、
 自分の目で確かめてから、
 都民を避難誘導させることを真剣に考えた我が国の首相がいます。
 こちらも、
 現場を徒に混乱させたとして決して好意的には報道されていません。

 しかし、この2人の我が国の首相は、おそらく、
 キューバ危機で核ミサイルの発射ボタンを押すか否かの決断を迫られた、
 ケネディ大統領と同じような状況に直面した稀有な体験をしたのです。

 『シン・ゴジラ』は、これらと同じ程度に切羽つまった状況であるのに、
 そのときに政治家がどう行動するかについて、
 何故スケールの小さい笑い話のようなステレオタイプの
 描き方になるのでしょうか?

 黒澤明や山本薩夫の時代よりもさらに、
 現実の事例が蓄積されているのですから、
 もう少し真剣にシミュレートしなければ、
 TVにも追いつけないのではないですか。

●何故『シン・ゴジラ』なのか?●

 この『シン』というのは、
 庵野総監督の『シン・エヴァンゲリオン』の流れで
 ついたタイトルのようですが、長年ゴジラを見て来たけれども、
 庵野氏の漫画・アニメを全く知らないものにとっては、
 変なタイトルを付けるな、という感じしか残りません。

 映画全体では従前のゴジラシリーズに対して、
 思い入れのあることは伝わるので、
 普通に『ゴジラ』にすればよいのではないのでしょうか?
 
******

 ということで、『シン・ゴジラ』は、全体に、
 発想が貧困であることばかりが記憶に残る映画でありました。
 
posted by Dausuke SHIBA at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

『シン・ゴジラ』あまりに発想が貧困ではないか(その1)

 ゴジラと誕生年が同じで、あまりに子供向けになったもの以外は、
 ほぼ全作見続けているので、ゴジラについてはよく考えます。

 ガメラは空を飛べるので、アクションの自由度が高く、
 手足を引っ込めた4個の穴からジェット噴射をして、
 高速回転で闇夜の中に飛び去る場面は、平成シリーズで一段と洗練されており、
 その視覚的イメージは素晴らしい。

 さらに『ガメラ』平成シリーズでは、
 ガメラが地球の生態系全体と結びついているという
 思索的な深みも加わり、怪獣映画の一つの頂点を極めたと思います。

 樋口監督は、日本的特撮のセンスは抜群なのですから、
 ご自身で監督する場合は、伊藤和典級の発想力のある方と組んで、
 物語と絵の融合に注力した方がよいと思います。

******

 それに引き換え、ゴジラは、
 昭和シリーズで口からの火炎噴射で空を飛んだのですが、
 平成シリーズでは相も変わらず、しかも図体がでかくなった分、
 海を泳ぐ姿はかわいらしくなったのはいいとして、
 上陸すると、ノッシノッシと歩くだけなので、
 ガメラのスピード感にちょっと敵わないか、という感じがしておりました。

 しかし、これは、日本中に原子力発電所が50発もできていたことを知らなかった
 おめでたきときの私の感想でした。

 東北大震災が起きて、私は初めて、
 日本中に原子力発電所が50発もできていたという
 世にも恐ろしい事実を知りました。

 そのときに、そういえば、ゴジラがつくられなくなった時期と、
 原子力発電所の数は何か関係があるのかな、と考え、
 そのうち検討したいなと思いながら今に至ってしまいました。

 今回、ウィキペディアの記事を参考にして、以下のような表を作成しました。
図1.jpg

 これを見ると、『ゴジラ』昭和シリーズは、
 戦争と原爆投下の記憶が鮮明だった1954年の第1作から、
 その記憶の象徴としての昭和天皇と、
 戦前から活躍した東宝の監督・脚本・俳優陣が健在であった時期までは、
 東宝映画独特の垢抜けたカラーと女優の美しさを始めとして、、
 娯楽映画として洗練されながらも、あの記憶のなんともいえないドローッとしたものが
 絶えず遠景にあったように思います。

 しかし、東京オリンピック、大阪万博を経た1970年代半ばになると、
 昭和天皇も晩年に入り、
 映画黄金時代を支えた東宝怪獣映画のスタッフ・キャストも一線から消えだし、
 映画産業全体も傾いてしまい、今回作成した表の頃になると、
 もう初期のコンセプトだけではどうにもならず、
 かといって方向性をどうしてよいか路頭に迷った末に、
 『ゴジラ』昭和シリーズは打ち切られたという気がします。

 但し、優れた戦後の文明論でもある小松左京の『日本沈没』
 1973年に映画化されており、
 戦後のコンセプトから抜けきれない『ゴジラ』昭和シリーズに代わって、
 東宝特撮映画の中心になったのもこの頃です。

******

 一方で、原子力発電所の数は、
 『ゴジラ』昭和シリーズの終焉と共に増えだし、
 1980年からバブルに至って後は、半端でない勢いで増えていきます。

 『ゴジラ』平成シリーズは、原子力発電所の数が急激に増加した時期に始まり、
 一貫して、ゴジラと原子力エネルギーとの関係に強く拘った筋立てとなっています。

 ゴジラは原子力発電所の核を求めて彷徨う「歩く原子力発電所」である、という、
 今考えれば『ゴジラ』の本質を突くコンセプトを前面に出しています。

 『ゴジラ』平成シリーズの、『ガメラ』平成シリーズにはない恐怖感は、
 「ゴジラは歩く原子力発電所」であるというこの1点に尽きると思います。

 『ゴジラ』平成シリーズの最後を飾った『ゴジラvsデストロイア』は、
 歩く原子力発電所であるゴジラの体内核分裂反応を、
 ゴジラ自身も制御できず、東京に多量の放射能を撒き散らしたあげく、
 骨となって燃え尽きるゴジラの最後が描かれます。

 そして、さらに、その撒き散らされた放射能を全て吸収してゴジラジュニアが生き返り、
 第2のゴジラとなって、歩く原子力発電所の恐怖はリサイクルされるという、
 本当に今思えば恐ろしい内容となっています。

 『ゴジラ』平成シリーズの制作陣は、
 日本中に原子力発電所が急増したことを強く意識していたのだと思います。

******

 『ゴジラ』平成シリーズの間に原子力発電所50発体制はほぼ出来上がり、
 ゴジラが彷徨うまでもなく、
 日本中いたるところ原子力発電所だらけになってしまったときに、
 『ゴジラ』平成シリーズは終了します。

 そしてその後のプレミアムシリーズは、『ゴジラ』昭和シリーズの末期と同様に、
 毒気を抜かれたような内容となり、いつの間にか終わってしまいました。

 『ゴジラ』平成シリーズは、もしかしたらやり過ぎたのかもしれません。
 
 『ゴジラ』は『自衛隊』との親和性が高く、
 『ゴジラ』と『自衛隊』が共存できるギリギリの内容を、
 東宝制作陣は考慮していると思うのですが、
 『ゴジラ』平成シリーズは、
 『原子力政策』との関係でギリギリの線を踏み越えたのかもしれません。

 そして東北大震災において『日本沈没』と『ゴジラvsデストロイア』は
 現実になってしまいます。

 今、『ゴジラ』全シリーズをみて、『ゴジラ』平成シリーズは、
 『ゴジラ』昭和シリーズの初期に匹敵する成果を残したと思います。

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 戦争と原爆投下の記憶をフィルムに焼き付けた『ゴジラ』第1作、
 東北大震災を予言した1973年版『日本沈没』
 (1973年版『日本沈没』の津波の場面も、東北大震災を見ずに、
 よくここまでリアルに再現した、と思えるほどの迫力があります)、
 原子力発電所の恐ろしさをまざまざと描いた『ゴジラ』平成シリーズ、
 そして、現実に東北大震災と原発事故を経た今、
 『シン・ゴジラ』は一体何を描こうとしたのか?

 『シン・ゴジラ』は思索的映画であるとして高い評価を受けているようですが、
 筆者からみると、あまりの発想の貧困さに「恥を知れ」といいたくなります。

(続く)
posted by Dausuke SHIBA at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2016年07月10日

『64-ロクヨン-』(後編)(2016-6-18)

 『64-ロクヨン-』(前編)を見てから仕事が立て込んでしまい、
 大分経ってしまいましたが『64-ロクヨン-』(後編)を、
 新宿ピカデリーに見に行ってまいりました。

 まずまずの満席に近い状態で、中高年の方々が多かったです。

 前編と同様に役者の演技の質の高さは、
 重要な役割を演じる緒方直人と、
 ちょっとかっこいい?柄本佑の両2世が加わり、
 ますます暑苦しさを増して良いのですが、、
 脚本と演出の甘さと興行のまずさが、
 前編のテンションの高さを削いでしまったように思います。

******

 前編は、佐藤浩市演じる群馬県警広報官が、
 過去の64事件のしがらみと、
 現在の組織内外の軋轢に巻き込まれ、
 娘との葛藤に苛まれる中で、
 警察官僚群、事件関係者、被害家族との錯綜した群像劇が構成され、
 部分的に脚本と演出の甘さはあるものの、
 群像を構成する役者の質の高さが存分に生かされ、
 全体としては『天国と地獄』に匹敵する迫力のある内容でした。

 前編が『天国と地獄』のようなサスペンス群像劇であるのに対して、
 後編は、
 64事件を引きずる元刑事としての佐藤浩市と、
 64事件の犯人との対決に至るまでを描く
 いわば『野良犬』のようなサスペンス社会劇となります。

 前篇の最後に、64事件をなぞる誘拐事件が勃発し、
 群像集団の内部エネルギーがピークに達したところで終わります。

 後編は、このピークの混乱から始まるのですが、
 群像内の絡み合いがパッタリとなくなり、
 64事件をなぞる犯人と被害家族の行動が全体の縦糸として
 アクション描写の中心となり、
 その過程で、各登場人物の役割(前編で提示された謎)が解き明かされ、
 佐藤浩市の行動の射程が64事件の犯人の追跡に絞られ、
 最後に2人が河原で1対1で対決することになります。

******

 脚本と演出が甘すぎます。

、前篇もそうでしたが、
 心理描写は佐藤浩市と犯人に集中させて、他は、
 登場人物の行動だけを描けば、言い換えれば、
 ハードボイルドに徹底すればよいのに、
 佐藤浩市の心情をおもんばかる若い部下たちが、
 佐藤浩市の行動に感動するところを長々と写したり、
 広報官チームの誠実を認めた瑛太の表情を延々と写したり、
 新旧二つの誘拐事件が密接に関係することを示すために、
 64事件をなぞる場面がやたらと長かったり、
 それに比べて、
 犯人個人に迫る描写がほとんどなかったりするので、
 後編の主題である、
 佐藤浩市と犯人の関係性が平面的で錯綜せず、
 説明的になってしまっています。

 『天国と地獄』は、
 前半では、舞台劇で、誘拐事件の家族の背景をしっかり説明し、
 後半では、野外劇で、犯人と警察の対決をハードボイルドに徹して描写し、
 最後に、犯人を慟哭させるに至る流れで構成されており、、
 後半以降では、犯人、家族及び警察の関係が、
 何の説明もなくても、見る側の心に直接迫ります。

 『野良犬』は、
 社会の不条理と、
 その中で誠実さを貫こうとして苦しむ若い刑事(三船敏郎)
 をたっぷりと描く中に、
 (全く出てこない)犯人の人間像が浮かび上がるように構成されており、
 最後に、沼地に追い詰められた実体としての犯人と、
 追い詰めた三船敏郎が泥まみれの取っ組み合いをして、
 2人は抱き合って力尽きるに至るのですが、
 見てる方も手に汗握り感極まってしまいます。

 吠えたり叫んだりする以外は説明的なせりふなしに、
 アクション描写だけで全てを言い尽くす、
 黒澤明監督ならではの脚本・演出です。

 そう考えると、『64-ロクヨン-』は、
 前篇も後編も、まだカットする余地が多くあり、
 前後編併せて4時間半ある上映時間を、3時間程度に圧縮して、
 一気にみせるべきではなかったかと思います。

 そうすれば、ラストの佐藤浩市と犯人の対決には、
 もっとエネルギーが凝縮した手に汗握るものになったのではないか。

******

 そこを前後編に分けてしまうので、
 前篇を早々に見た人は、
 後編を1月待ってから見ることになります。

 私などは前編を試写会で見た身分で文句も言えませんが、
 2月待って見ることになり、
 さすがに前編の複雑かつ重要な伏線を全ては覚えておらず、
 緒方直人はこれだけ重要な役だけど前編で出てたかな?
 とかいらんことを考え出すし、
 何といっても前編ラストから続く県警内の混乱状態は、
 いったいこれ何でこうなったんだっけな、という感じで、
 どうも乗り切れません。

 また、試写会の小ぶりのスクリーンに対して、
 新宿ピカデリーの巨大なスクリーンでは、
 なんとなく画面の両脇がスケスケした感じになってしまい、
 撮影の画像設計の甘さがあからさまにでてしまいます。

******

 『64-ロクヨン-』を『天国と地獄』と『野良犬』‎と比較したのは酷ではありましたが、
 『64-ロクヨン-』は、最近の大人向け日本映画(*)に比べれば、
 遥かに上質な映画といえるので、見てよかったと思っています。

 佐藤浩市にはこれからも頑張って欲しいものです。

(*)『ソロモンの偽証』のミステリーとしての構成、
   『天空の蜂』のシナリオ(これは監督が気の毒)、
   『人生の約束』の脚本・演出・俳優
   は本当に酷かった。

   特にこれらの映画のシナリオライターは、
   何か映画を誤解しているのではないかと思う。
タグ:佐藤浩市
posted by Dausuke SHIBA at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

『64-ロクヨン-』(前編)(2016-4-29)

 お客様からときどき映画の試写券をいただいており、
 とても嬉しく見に行っているのですが、
 今回は話題の『64-ロクヨン-』(前編)を、
 ゴールデンウィーク開幕の休日という、
 なんとも贅沢な日に見ることができました。

 最近は本もTVも見たり読んだりしていなかったのですが、
 横山秀夫原作で相当に話題になっていたのは知っており、
 年齢を重ねるごとに味わい深くなっている佐藤浩市主演なので、
 予備知識なく見るのもいいかな、という思いでありました。

 試写会場は内幸町のイイノホール
 高校生の頃、ラジオの試写券プレゼントに応募して、
 結構それが当たってイイノホールにも行ったものですが、
 もうあの頃のうらぶれたビルではなく、
 現代的な高層ビル内の1000人ほどは入れそうな
 巨大な多目的会場となっていました。

 開場前から長蛇の列でしたが、会場も広いので、
 まずは前の方の席に陣取ることができました。

 試写会場は、広い舞台の奥にスクリーンがあるので、
 前の方でみてちょうどよいと思っています。

******

 さて、映画ですが、
 このテンションが後編まで続けば
 今年のベスト1を争う傑作になったと思いました。

 試写会で、エンドロールがでたとたん、
 盛大な拍手が湧きおこりました。

 前編だけに伏線だらけなのですが、
 伏線に絡む男優たちが絶品です。

 何と言っても佐藤浩市がかっこよすぎます。
 これは、試写会場で配布されたパンフレットから引用しましたが、
 他の共演者も主役級ですが、佐藤浩市でなければ様になりません。
試写会場配布パンフ.jpg

 彼の親父にとっての『飢餓海峡』がそうだったように、
 佐藤浩市にとっての代表作になるのではないでしょうか。

 群馬県警勤務の三上義信(佐藤浩市)は、
 昭和64年の少女誘拐殺人事件(64事件)の担当刑事なるも、
 事件は未解決となり、忸怩たる思いのまま、
 事件から15年後に、
 不本意ながら事務方の公報担当官に異動となる。

 群馬県警の活動の広報官として、
 県警に駐在する記者クラブに誠実に対応するも、
 県警サイドの情報操作によって梯子を外され、
 情報操作に我慢ならない記者クラブに突き上げられ、
 事務方上層部からは無能呼ばわりされ、
 刑事方上層部からは裏切り者扱いされ、
 彼の娘にまで愛想を尽かされる欝々とした日々。

 それらに加え、
 未解決となっている64事件のトラウマに縛られ続ける
 当時の同僚刑事達との苦い交流、
 後遺症に苦しみ人生が狂ってしまった家族などの関係者
 に翻弄される日々。

 あんなつらい男の日常は、
 佐藤浩市でなければ、耐えきれません。

 しかし、不屈の佐藤浩市の、
 全てに立ち向かい、そして砕けそうになる姿は感動的です。

 今年の主演男優賞はほとんど決まりです。

 そして、今年の助演男優賞を、
 この中から誰が取るのだろう、と思えるほどの、
 こいつらは演じているのか? と思うほどの芸達者ばかり。

 佐藤浩市の組織上の上司であり、
 佐藤浩市に左遷宣告する、これ以上になく感じの悪すぎる
 事務方トップの警務部長である滝藤 賢一、

 佐藤浩市に意地悪く情報を出さない、
 ほとんどヤクザの刑事部長である奥田瑛二、
 
 64事件当時の直属上司で、
 今は、奥田瑛二の右腕になっている、
 薄気味の悪い刑事方課長である三浦友和、

 滝藤 賢一と奥田瑛二の上司の県警本部長で、
 警察官僚の底意地の悪さをここまで極められるのかと思える
 県警本部長である椎名桔平
 (めずらしく悪役を喜々として演じてます)、

 娘が惨殺され、妻にも先立たれ、
 人生の不条理に打ちひしがれながらも、
 何を考えているかわからない、
 64事件の被害者少女の父親である永瀬正敏、

 64事件当時の失敗捜査の責任を被せられ、
 今ではスーパー警備員をしながら妻子を養うも、
 一癖も二癖もあってしたたかそうな元警官である吉岡秀隆、

 64事件当時の担当官で、今も、
 吉岡秀隆を監視する仕事をやらされ、
 人生が破綻しそうな警官である筒井道隆、

 佐藤浩市を苛め抜く記者クラブのリーダーである瑛太。

 これだけの主演・助演男優と、
 女優としてただ一人渡り合うのが、
 娘の失踪によって、家庭崩壊の瀬戸際に苦しみながら
 夫を支える佐藤浩市の妻である夏川結衣。

 夏川結衣は、本当に怖いほど上手い!
 今年の助演女優賞は確実と思います。

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 ちょっと残念なのは、
 脚本と演出が原作に頼り切っていそうな点と、
 一気に前後編をみせない点。

 佐藤浩市が頑張っているのに、
 涙の押し売り的な演出が甘すぎます。

 『天国と地獄』のように、
 ラストに犯人の慟哭をもってくる演出や、
 一気呵成に2時間半を見せ切る映画体験を、
 客に提供してもよいのではないでしょうか。

 入れ替えでもいいから、一日で最後まで見たかった
 (すいません、試写会で贅沢言って)。

 ということで、今回の男優・女優をみると、
 最近、映画によく出る、
 江口洋介、竹野内豊、西田敏行、鶴瓶とかは素人にみえるし
 (鶴瓶は実際に素人ですが)、

 今回の俳優の中で唯一(鶴瓶よりマシな)素人の赤井英和が、
 やっぱり素人にしか見えないというほど、
 日本映画の役者の質の高さを存分に味わえる、
 久々の力作でありました。
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posted by Dausuke SHIBA at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画