2020年07月19日

続・将棋界の天才達と共に歩むわが将棋人生■藤井聡太の時代まで生き延びた幸運を噛締める■

 2年前に、私の小学校時代からの将棋の盟友が亡くなり、
 同じ頃に、私たちとよく似た少年時代を送った将棋棋士である
 瀬川晶司五段原作の映画『泣き虫しょったんの奇跡』を観て、
 亡き友を思い出しながら、
 仰々しいタイトルで、私の将棋歴を書き綴ってみました。
 (拙著『将棋界の天才達と共に歩むわが将棋人生』)

 私が曲がりなりにも1年に数局の将棋を指していたのは、
 10年ほど前までで、今では新聞将棋欄をみるだけという体たらく、
 「将棋人生」などとおこがましいわけですが、
 それでも、ここ数年間の藤井聡太さんの活躍は、
 久々に名人らしい名人の誕生を予感させて、
 藤井聡太さんの時代まで生き延びた幸運を噛締める今日この頃です。

 ******

 棋士の敬称は保持しているタイトル又は段位であると思うのですが、
 これらは時々刻々変わってしまうので、とても扱いずらいです。

 そこで、以下では、永世名人の有資格者は永世名人名で、
 そうでない方は、話の中の時代におけるタイトル・段位を敬称とします。

 永世名人の有資格者は以下の敬称となります。
 木村14世名人大山15世名人中原16世名人
 谷川17世名人森内18世名人羽生19世名人
 現役は谷川、森内、羽生の各永世名人です。

 ちなみに、永世名人とは、
 江戸時代からの家元名人制の世襲名人の称号でしたが、
 戦後、新聞社主催の実力名人制になったときに、
 名人位を5期保持した棋士は引退後に「永世名人」を名乗れるとしました。

 実力名人制の最初の永世名人が木村14世名人でした。

■名人らしい名人■
●木村時代→大山時代●
 私が小学生の頃は、既に、私が物心ついたときに名人で、
 多くの人が、この先も永遠に名人なのではないかと思っていた
 大山15世名人が強さもピークの時代でした。

 しかし、大山名人の盤石ぶりはその通りとして、
 その大山名人よりも前に、名人と言えばその人と言われた、
 大山名人のような盤石の名人がいた、と、
 当時の私の親の世代が伝説のように語っていた人がいました。

 その人とは、戦前から戦後にかけて不敗の名人を続けた木村14世名人で、
 ときたま、NHK将棋の時間の特別対局に登場したとき、
 私などは生き神様をみるように見入ったものです。

 当時は、木村14世名人に対峙した塚田正夫九段がまだ現役で、
 大山15世名人には升田幸三九段が各棋戦で対決を繰り返し、
 二上達也、加藤一二三、山田通美、内藤邦夫、丸田祐三等の
 綺羅星の如きスター棋士が、大山名人に挑戦する前に、
 塚田正夫九段、升田幸三九段を破らねばならないという
 オリンポスの神々の闘いが繰り広げられ、
 小学生の私には心躍るものがありました。

 当時は「九段」は名人経験者にしか与えられない段位で、
 塚田正夫九段升田幸三九段の呼称は神々しいものでした
 (お二人は、それぞれ名人位を2期保持しました。
  木村・大山の全盛時代に、
  名人位を2期保持できたのは奇跡に近かったと思います)。

●大山時代→中原時代→中原・谷川時代●
 そして、遂に大山15世名人にも衰えの兆しが、という時期に、
 華々しく登場したのが、中原16世名人で、当時の中原八段は、
 大山15世名人が13連覇した後の名人戦で大山15世名人を倒し、
 その後、名人位を9連覇して、盤石の中原時代を築いたのでした。

 将棋界の移り変わりも実に華麗で、
 盤石の中原16世名人の名人位10連覇を阻んだのは、
 何と、大山時代に徹底的に頭を押さえつけられ、
 やや影が薄くなっていた加藤一二三八段で、
 これが、加藤一二三八段の最後の光芒となり、翌年は、
 誰もが中原16世名人の覇権を引き継ぐと信じて疑わなかった谷川17世名人が
 加藤一二三八段から名人位を奪取したのでした。

 しかし、中原16世名人はまだまだ余力を残しており、
 その後、さらに10年間に渡り、
 中原16世名人vs谷川17世名人の死闘が繰り広げられたのです。

 その中原16世名人に引導を渡したのは、谷川17世名人ではなく、
 中原16世名人と同世代で、中原16世名人に対抗し続けた、
 木村14世名人に対する塚田九段、大山15世名人に対する升田九段に匹敵する
 実力者で棋界のスターとして君臨した米長邦雄九段でした。

 中原16世名人に軽々と挑戦して勝利する谷川17世名人を傍目に、
 何度挑戦しても中原16世名人の牙城を崩せなかった米長九段の、
 本人もこれが最後と覚悟しての鬼気迫る執念の第51期名人戦七番勝負は、
 将棋史に残る凄まじい迫力でした。

 そして、米長九段が力を出し尽くして名人位に就いた翌年に、
 噂の若き天才、羽生八段が米長名人に挑戦し、
 既に燃え尽きていた米長名人から名人位を奪取して、
 長く続いた中原時代は終焉したのです。

●戦国時代→羽生・森内時代●
 その後、羽生19世名人、谷川17世名人、谷川17世名人と同世代の南八段、
 羽生19世名人と同世代の佐藤康光八段、森内18世名人等が入り乱れての
 戦国時代を経て、羽生・森内時代になっていきました。

●名人らしい名人●
 以上のように、木村14世、大山15世、中原16世名人の、
 実力に裏付けられた重厚感と将棋文化を体現する物腰は、
 まさに『名人』としか言いようがありませんでした。

 谷川17世名人は、何と大山15世名人がまだまだ元気で、
 中原16世名人が全盛の時に激突し、さらに、
 羽生19世名人が少し早く台頭してきたため、
 盤石の谷川時代をつくることができませんでしたが、
 戦後最強の大山・中原時代を、飛び抜けた天才として戦った中で、、
 名人の風格を自然に身に着けた、
 最後の名人らしい名人であると言えます。

■将棋界をつまらなくした現代化■
 羽生・森内以降の将棋界は、上記した、
 木村14世、大山15世、中原16世、谷川17世名人の、
 黄金時f代に比べて、とてもつまらなくなりました。

 理由は以下の3つです。

@名人らしい名人がいなくなった
 大山名人は、テレビに出演すると、
 聖人君子のようなどっしりと落ち着いた風格が漂った大名人なのですが、
 実際は、勝つためなら結構えげつなく手段を選ばない
 というようなところもあったと言われています
 (勝負師たるもの当然の心構えであって悪いことではありません)。

 中原名人は、将棋界のあこがれの美少女だった林葉直子さんと
 派手なスキャンダルを展開しましたが、
 それでも棋力には全く影響を受けず最後まで第一人者であり続けました。

 米長九段は、名人とは天から選ばれし者しかなれないのではないか、
 と嘆いていたのを、羽生19世名人の実力主義世代に半分飲み込まれながら、
 その諦観を最後の最後で打破して名人を掴み取ったと言ってよいと思います。

 また、米長九段も谷川17世名人も、兄は頭が悪いので東大・京大に行った
 と言えるほどの将棋の天才でした。

 このように、かつての名人経験者は、人格的には相当にアンバランスで、
 将棋界以外ではとても生きていけそうにない、
 ある種、得体の知れない変人ばかりといってよいと思います。

 しかし、羽生・森内以降は、
 (別に彼らの責任ではないのですが)普通の感覚の人が、
 ただ強いことだけを理由に名人になっているという感じがするのです。

 羽生19世名人は、名人をとった頃
 「強い人が名人になるのは当然のことです」などという、
 面白くも何ともない陳腐なコメントをしていたと思います。

 こんな身も蓋もないないことを聞かされては鼻白みます。

 やはり、名人たるもの、
 将棋文化の伝統を継承し体現する重要な役割があると認識すべきです。

A盤石永世名人vs飛石永世名人
 永世名人は名人位を5期保持した棋士に与えられる称号ですが、
 中原16世名人までは、「5期連続保持」して永世名人になることが
 当然のことと、多くの将棋ファンは思っていたものです。

 名人位を「5期連続保持」する実力者は、当然にさらに保持するわけで、
 「永世名人」というにふさわしい盤石ぶりであるということになります。

 しかし、谷川17世名人以降は、「5期連続保持」をすることができず、
 飛石で5期保持する永世名人しかでませんでした。

 その状況を表にまとめてみました。
盤石名人と飛石名人.jpg

 おそらく、あまり将棋に興味がない方には、
 羽生19世名人よりも先に永世名人になった森内18世名人がいたことなど
 記憶にないかもしれません。

 羽生19世名人も、表を見てわかるように、
 常時名人だったというわけではなく、
 森内18世名人、同世代の佐藤康光八段、丸山忠久八段の中で、
 タイトルが移り変わっていて、盤石とはいえません。

 このように、飛石永世名人は盤石な名人という印象が残らず、
 羽生19世名人をメディアが大きく取り上げるのは、
 他の格下タイトルのトータル保持数だけに着目してのことに過ぎない
 ことがよくわかります。

B将棋タイトルの賞金額による格付け
 かつては、将棋タイトルは、
 江戸時代からの家元名人制を戦後引き継いで実力名人制となった
 「名人」(朝日新聞・毎日新聞主催)を頂点とし、
 最高段位の象徴である「九段戦」を引き継ぐ「十段」(読売新聞主催)
 がこれに続き、その下に、
 戦後に各新聞社が主催した七番勝負二日制の「王将」「王位」、
 さらにその下に、五番勝負一日制の「棋聖」が主要タイトルとされ、
 伝統と格式に応じたタイトル戦内容に基づいて格が決まっていました。

 しかし、読売新聞が「十段」を廃止して、
 「業界」最高賞金額のタイトル「竜王」を創設し、
 何故そのような慣行になったのかはわからないのですが、
 今では、新聞・ネット名メディアは、
 伝統と格式ではなく、賞金額の多寡によって、
 竜王→名人→王将→王位→棋聖のような順で格付けをしています。

 このような札束の高さでタイトルの格付けを、
 新聞社自らがしてしまっては、
 将棋ファンとしては白けかえってしまいます。

 そもそも、飛車の裏に過ぎない「竜王」が何で「名人」「王将」
 よりも格上になるのか、全く意味がわかりません
 (チェスの最強の駒である「クイーン」が「キング」よりも格上
  という話ならわからないでもないのですが)。

■藤井聡太の時代が来る■
 藤井聡太七段のことを語ろうと思いますが、
 その前に、将棋の段位の仕組みについて簡単に説明しておきます。

《順位戦と名人戦》
 将棋連盟に所属する棋士の実力と給料は、
 朝日新聞と毎日新聞が共催する「順位戦」の成績と紐づけられています。

 順位戦は、「C級2組」「C級1組」「B級2組」「B級1組」「A級」
 に分かれ、各組は10〜20人程度でリーグ戦を行います。

 棋士は、三段になるまではアマチュア扱いで40人程度の「奨励会」に所属し、
 「奨励会」を勝ち抜くと四段になり、
 正式にプロ棋士として給料生活者となり「C級2組」に所属し、
 「C級2組」で勝ち抜くと、
 「C級1組」に昇級して五段になり、ここで勝ち抜くと、
 「B級2組」に昇級して六段になり、ここで勝ち抜くと、
 「B級1組」に昇級して七段になり、ここで勝ち抜くと、
 「A級」に昇級して八段になり、ここで勝ち抜くと、
 「名人戦」の挑戦者になります。

 従って、名人戦の挑戦者になるには、A級に所属しなければならず、
 名人戦の挑戦者は必ず八段以上であるということになりますから、
 A級八段というのは、オリンポスの神々に例えてもよい、
 将棋界の頂点に位置する棋士であることを意味することになります。

 棋士の給料は、順位戦の所属する組によって決まり、
 段位とは直接紐づけられていません。

 即ち、棋士は、各組のリーグ戦で一定の下位に留まると、
 降格しますが、段位は変わりませんから、
 A級八段はB級1組に陥落すると給料が減りますが八段のままです。

 毎年負けばかり混んだ八段は、最後はC級2組まで陥落して、
 奨励会から昇級したばかりの四段や、
 C級1組から降格した五〜九段の人たちとリーグ戦を戦うことになります。

《棋士の段位》
 棋士の段位は、上記のように、原則、各組への昇級と同時に昇段し、
 A級に昇級したときには必ず八段になります。

 しかし、棋士の段位は、ある時期から、
 順位戦以外のタイトル戦でタイトルを取ったり、
 一定の通算勝利数に達すると昇段するという規定が加わりました。

 例えば、B級2組に在籍し本来は六段である棋士が、
 他の棋戦での活躍に応じて、
 B級2組に在籍中に七段になることも今ではありえます。

 その典型が、藤井聡太七段です。

 この「七段」という段位はそうそうとれるものではなく、
 七段になれないまま引退する多くの棋士がおり、一方で、
 A級に昇級できず七段のまま引退する棋士も多いことを考えると 
 藤井聡太七段が、他の棋戦で如何に尋常でない活躍をし、かつ、
 すんなりとタイトル保持者になれるほどに図抜けて強いことがわかります。

 しかし、藤井聡太七段が名人戦の挑戦者になるには、
 「B級2組」のリーグ戦を勝ち抜き「B級1組」に昇級し、さらに、
 「B級1組」のリーグ戦を勝ち抜き「A級」に所属しなければならないので、
 少なくともあと2年は辛抱しなければなりません。

●藤井聡太七段は久しくいなかった名人らしい名人になるだろう●
《藤井聡太七段の活躍》
 将棋もIT化の波が押し寄せ、一時、棋戦の最中に席を立った棋士が、
 将棋ソフトの助けを借りたのではないかと疑われる、
 かつてはあり得なかった漫画のようなゴタゴタが起きています
(「将棋ソフト不正使用疑惑騒動」)。

 豊島現名人はITを積極的に活用する棋士として有名ですが、
 そのこと自体は悪いことでは全くありませんが、如何せん、
 ITプログラマーのお兄さんが将棋名人をしているようにしか見えず、
 名人らしい名人は遠くなったものだと思っていました。

 そこに、忽然と現れたのが、中学生棋士だった藤井聡太さんでした。

 「藤井君」などと「君付け」で呼ぶことが憚られ、
 「藤井さん」と「さん付け」で呼ばずにはいられない、
 中学生とは思えない落ち着きっぷり、老けっぷり、謙虚ぶりで、
 将棋ソフトは当然に活用している筈ですが、
 その雰囲気を全く感じさせないところが、
 将棋ファンのおじさんたちには泣けてくるところです。

 ******

 先日、棋聖戦を制して、史上最年少のタイトルホルダーになりましたが
 高校生になった藤井聡太七段の落ち着きっぷり、老けっぷり、謙虚ぶりは
 まったく変わらず、名人らしい名人になることが約束されていると
 心から思った次第です。

 「棋聖」戦は、五番勝負一日制の格下タイトルで、
 藤井聡太七段にとって、
 この程度のタイトル保持は単なる通過点に過ぎませんが、
 やはり「七段」でタイトルを保持したことにとても意味がある
 (とてもかっこいい)と思います。

 「棋聖」は、大山15世名人や中原16世名人は、
 おまけかついでのように保持していましたが、
 打倒大山・中原を目指すA級棋士や、六段までの若手棋士が
 全力を傾けて挑戦すると奪回できてしまうことが多く。
 A級棋士がとるには軽すぎ、
 六段までの棋士がとると役不足のような感じでしたが、
 今回、藤井聡太七段がとると丁度よく収まっている感じがします。

《渡辺九段・木村王位頑張れ!》
 先に書きましたが、
 やはりプロ棋士は「名人」を1期でも取らなければ歴史に残りません。

 「竜王」を何十期保持しようが、「名人」1期の方が格段に重みがあります。

 先の表にまとめたように、名人位を一度でも保持して九段になった棋士
 (塚田正夫九段、升田幸三九段、加藤一二三九段、米長邦男九段、
  佐藤康光九段、丸山忠久九段、佐藤天彦九段、豊島将之九段)
 は歴史に残りますが、

 藤井聡太七段に「棋聖」を奪回された渡辺九段のように、
 既に竜王を9連覇を含めて11期保持し、盤石竜王になっても、
 おそらく人の記憶には残らないと思います。

 渡辺九段は、「棋聖」のような安物タイトルに固執せず、
 現在戦っている、豊島名人との名人戦を勝ち抜いて、
 なんとしても名人を奪回し、
 3年後の挑戦が予定されている藤井聡太八段との名人戦に備えるべきです。

 ******

 木村王位が、昨年、45歳にして悲願のタイトル奪取したときは、
 心から嬉しく思いました。

 将棋解説していたときの木村九段は、TVで見ると、
 落ち着いたベテランの雰囲気を漂わせていましたが、
 王位を奪取した時の写真を見ると、
 おでこから下は結構お若く、かわいらしい感じがし、
 女性ファンが多いのも理解できました。

 今回の、藤井聡太七段を挑戦者に迎えての王位戦は、
 かつて、米長名人が、
 前年に、悲願の名人位を中原16世名人から奪取して、
 その翌年に、羽生八段を挑戦者に迎えた名人戦を彷彿とします。

 木村王位は、米長名人のように燃え尽きてはいないと思いますので、
 ここは、藤井聡太七段に立ち塞がって見せ場をつくって欲しいものです。

 昨年の王位戦では、挑戦者であった木村九段が、
 豊島王位に対して、出だし2連敗の絶望的な状況から、
 執念の逆転勝利を重ねてタイトルを奪取しています。

 昨年の王位戦を再現すべく、木村王位には頑張って欲しい。

 ******

 これからの藤井聡太の時代を老後の楽しみにしたいものです。
posted by Dausuke SHIBA at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2019年12月07日

『桜を見る会』問題と日本人の論理的思考能力

■日本の高校生の読解力■
 経済協力開発機構(OECD)が79か国・地域の15歳計約60万人を対象にした
 2018年度「国際学習到達度調査(PISA)」で、「読解力」で、
 日本の高校生が、2015年度の8位から15位に急降下して話題になりました。

 調査内容そのものは公表されていないのですが、
 文科省が「読解力」の問題例を公表していたので見てみました↓
http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/04_example.pdf

 問題例は、女性教授が、
 ラパヌイ島(モアイ像で有名なイースター島)のフィールドワークに関する講演会
 を行うにあたり、聴講者に、
 事前にラパヌイ島の歴史について調べさせるという設定で、
 女性教授のブログに掲載された以下の資料:
 @ラパヌイ島に関する女性教授のブログ記事;
 Aラパヌイ島の文明崩壊に関する著書に対する女性教授の書評;
 Bラパヌイ島の森林破壊に関するニュース記事
 を読ませ、それぞれに設けられた7つの問に回答させるという内容です。

 例えば、問7は、
 「三つの資料を読んで、
  あなたはラバヌイ島の大木が消滅した原因は何だと思いますか。
  資料から根拠となる情報を挙げて、あなたの答えを説明してください。」
 という内容で、自由記述で回答しなければなりません。

 それぞれの資料はA4で1頁程度の量ですが、内容をきちんと把握して
 論理的に文章を組み立てる必要があるので、
 論理的思考能力のない高校生には回答が難しいと思われます。

 PISAの対象となる日本の高校生は、
 それなりに優等生が選ばれていると思いますから、
 優等生にしてこの順位(低読解力)では、
 優等生でない劣等生は目も当てられない低読解力と考えられます。

■『桜を見る会』問題との関係■
 PISAの記事が報道された時期に、『桜を見る会』に関して、
 内閣官房等の官僚に対する野党のヒアリングが連日行われています。
https://www.youtube.com/user/thepagejp/videos?disable_polymer=1

 このヒアリングでの、野党議員の質問に対する官僚の回答を聞くと、
 「違法でなければいい」という倫理上最低限の防衛ラインを死守するための
 頭脳を使った形跡のない、論理のかけらもない
 耳を覆わんばかりの発言が延々と繰り返されています。

 中心となるのは、内閣中枢を支える内閣官房の官僚ですから、
 官僚のなかでもT大等を出た選りすぐりの秀才エリートであるはずですが、
 PISAの低読解力の優等性の親の世代だと思えば、この親にしてこの子あり、
 妙に納得してしまったりもします。

 野党が『桜を見る会』問題に総力を挙げる状況に対して、
 「このような小さな政治課題に、
  どれだけ国会の貴重な時間と労力をかけるのか、
  議論すべき重要な政治課題が他にあるだろう」と揶揄する声が上がります。

 しかし、この問題の本質は、政治課題の大小の話ではなく、
 小さな政治課題に対するヒアリングで露骨に顕在化した、
 我が国中枢の論理なき低次元の最低レベルの討議が、
 TPP・FTA(特に食・公共インフラ民営化の問題)、防衛、労働環境、公教育、
 年金、モリカケ、(IPS基礎研究支援打切りにまで進展した)研究政策、
 アベノミクス、統計不正、政権のメディア管理、消費税等の
 大きな政治課題の全てにおいてなされているという点にあり、
 アベノミクス・年金運用・教育改革の明らかな失敗をみてもわかるように、
 このような論理なき低次元の最低レベルの討議に基づく政策が
 成功するはずがないのです。

 そして、『桜を見る会』問題という小さな政治課題でさえ、
 野党が総力を挙げて追及して、ようやく蟻の一穴になるか、
 という状況ですから、その他の大きな課題のそれぞれに対して、
 野党が分散して立ち向かっても、既になされてきた、
 論理なき低次元の最低レベルの不毛な討議以上にならないことは
 目に見えています。

 そうであれば、野党が結集して、
 小さい政治課題に蟻の一穴を開けようとすることも
 戦略として一理あるでしょう。 

■日本人の論理的思考能力は何故育たないのか■
 これまでの私の細やかな社会経験からみて、
 日本人に論理的思考能力が育たない(=読解力が低い)のは、
 「責任を一切とりたくない」という
 日本人の骨の髄まで染み込んだ精神的遺伝子と密接不可分と思われます。

 日本人が誰かと何らかの討議をすると、
 @それぞれが責任をもつ主張をまずは提示しあい、その上で、
  様々な条件を検討し、譲歩・妥協を重ねて、
  双方に有益な結論に導くという方向には中々進まず、
 Aまず、相手の主張を聞き、その相手の主張に自己をどう当て嵌めていくか、
  という方向に進むことが多いと思われます。

 Aの進め方は、日本人の多くの討議の場で見ることができます。

 Aのような進め方ばかりすると、
 自己の主張を事前に整理して、論理的思考に基づいて、
 相手を説得できるような主張をする訓練をしないまま、
 相手の論理に引きずられてしまい、結果として論理的思考能力が育ちません。

 以下では、私が「ア〜、これではなあ」と思った事例を挙げてみますので、
 考えてみて下さい(私の昔の記憶から掘り起こしている事例は、たぶん、
 フィクションが相当に交じっていますが、よく見られる光景と思います)。

《エピソード1(古典的事例)》
 丸山眞男『天皇制における無責任の体系』と河合隼雄『中空構造日本の深層
 による日本人社会の分析は、いまだに正しいことを実感してしまいます。

 これらの分析によれば、第二次世界大戦(日本にとっては太平洋戦争)での
 日本の戦争責任を当の日本人に問いただしていくと、
 ●一般国民:マスメディアに煽られ軍部の独走に巻き込まれただけで、責任はない。
 ●二等兵:徴兵され最下層の兵として軍の指示に従っただけで、責任はない。
 ●一等兵:上等兵の指示に従っただけで、責任はない。
 ●上等兵:軍曹の指示に従っただけで、責任はない。
 ●軍曹:少尉殿の指示に従っただけで、責任はない。
 ●少尉:中尉殿の指示に従っただけで、責任はない。
 ●中尉:大尉殿の指示に従っただけで、責任はない。
 ●大尉:少将閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●少将:中将閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●中将:大将閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●大将:元帥閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●元帥:大元帥閣下の指示に従っただけで、責任はない。
 ●大元帥:御前会議で報告を受けただけで、責任はない。
 ●御前会議:大元帥のご意思を慮った報告をしただけで、責任はない。
 となり、最後まで辿っても、何もない中空に「報告」が浮かんでいるだけ
 という怪奇スリラーになるわけです
 (この怪奇スリラーを、とてつもなく面白いミステリーにしたのが、
  大西巨人『神聖喜劇』で、全5巻の大作ですが、ご一読をお奨めします)。

《エピソード2(桜を見る会)》
 記者会見では、以下のようなやりとりがなされています。
 ●菅 :『桜を見る会』の推薦名簿掲載の最終責任者は自分だ。
 ●記者:推薦名簿はいつ廃棄しましたか?
 ●菅 :5月9日にシュレッダーにかけた、と報告を受けています。

 野党ヒヤリングでは、以下のようなやりとりがなされています。
 ●野党議員:推薦名簿はいつ廃棄しましたか?
 ●官房課長:官房長官の説明した通りです。

 上記のやりとりをみると、官房長官は最終責任者なのだから、
 記者会見では「5月9日にシュレッダーにかけた」と言い切ればよいのに、
 「と報告を受けています」と続けるので、
 官房スタッフが決めてその通りにしている(自分の意志ではない)
 というこになってしまう一方、
 官房課長は「官房長官が説明した通りです」としてしまうので、
 官房スタッフではなく官房長官が意思決定したことになり、
 官房長官と官房スタッフのどちらに責任があるか不明確になります。

《エピソード3(ある勉強会で)》
 法学部の学生や意識高い系市民が集う勉強会に、私は、
 ひょんなことをきっかけにして飛び入りで参加することになりました。

 勉強会では、月に1回、
 戦後に旧文部省が編集した中学・高校用教科書『民主主義』を、
 勉強会メンバーが分担して1回に20頁程度ずつ読み合わせをしている
 とのことでした。

 その日は、法学部の学生さんが、
 民主主義が萌芽した17〜18世紀のイギリス・フランスの社会状況を、
 教科書に沿って説明してくれました。

 しかし、説明というよりは教科書をそのまま読んでいるだけのようなので、
 少し意地の悪い質問をしてみました(いつもこれで嫌われるのですが)。

 ●私 :イギリスなりフランスでは、今回の説明の流れの中で、
     どの場面で、民主主義といえるものが発生したことになりますか?
 ●学生:・・・・・・民主主義自体の話はここには説明されてないので
     ・・・・・・しどろもどろ、しどろもどろ、しどろもどろ・・・・・・

 法学を専攻する学生が、このような市民のサロン的勉強会で、
 中学・高校用教科書で一から民主主義を学ぼうなどと考える方がおかしい
 と思うのです。

 法学の考え方は、民主主義の骨格を形成する大きな要素ですから、
 大学の法学(特に憲法)の講義では、
 先生は必ず民主主義との関係に触れているはずです。

 そうであれば、学生なりに民主主義のイメージくらいは持っていて、
 そのイメージは、教科書の歴史的観点の切り口からみて、
 どのように位置付けられるのか、くらいの論理的思考はして欲しいものです。
 
 学生が私に苛められていると察した、市民メンバーであるシニアのご婦人が
 学生に助け舟を出そうと後方から意見を言われました。

 ●婦人:質問された方は、この教科書を最後まで読むと答えがわかりますよ。
 ●私 :・・・・・・(絶句)

 私からみれば、ご婦人は教科書を最後までお読みになっていて、
 ご意見によれば、私の質問の回答がおわかりのはずでしょうから、
 ご婦人が、学生に代わって説明すればよいのに、と思うのですが、
 回答は私が教科書を読んで探すべきだということになるのです。

 日本人の討議ではよく出くわすやりとりですが、
 論理的に考えないと答えられない私の質問に対して、
 学生とご婦人は、自ら答える努力をせずに、
 答えは教科書に書いていないなどと教科書に責任を転嫁し、
 質問の回答を知ることは質問者の自己責任のような話にしてしまうので、
 民主主義と17〜18世紀のイギリス・フランスの社会状況の関係について
 結局何も考えないままになっています。

 日本人による勉強会の多くは、このように、
 ありがたいお経を読む会のようになってしまい、
 討議することによって論理的に意見交換することをしないため、
 勉強した気分に浸るだけで、論理的思考能力が育たないのです。

《エピソード4(某特許事務所で)》
 私が某特許事務所に入所したばかりの頃、
 既に退所していた前任者が手掛けた特許出願の審査で出された、
 拒絶理由通知の処理をすることになりました。

 拒絶理由は、特許請求の範囲に特定された数値範囲に、
 実施例が入っていないので、発明の範囲が明細書でサポートされていない
 というサポート要件違反でした。

 明細書の記載も、実施例の範囲に入っていないため、
 補正のしようがなく、絶体絶命のピンチとなりました。

 こんな明細書を書いた前任者が問題なのですが、
 既にいない前任者を責めることもできません。

 そこで、入所したばかりの私が、この難問に取り組んでみたところ、
 若干奇抜ながら、論理的には筋の通る補正案が見えてきたのです。

 そこで、この補正案を私の上司であるT大出の副所長に提案してみたのです。

 ●私  :これこれこういう理屈で補正すれば拒絶理由は解消しますから、
      意見書でも論理的な説明ができるはずです。
 ●副所長:あら〜、私の経験から言ったら、それは失敗するリスクが高いわ。
      失敗したら、お客さんになんて言い訳するの?
      こういうときは、お客様にどうするか聞いて、
      お客様の言う通りにしてちょーだい。

 遠い昔に、私が企業の研究所に勤務していた頃、
 私が発明者である出願の拒絶理由通知に対して、特許事務所の担当者に、
 頭から「この拒絶理由に対してどのように補正しますか?」と聞かれ、
 特許事務所の人は何と無責任なんだ、と思ったことが思い出されました。

 拒絶理由に対する補正案を検討するというような専門的なことは、
 特許事務所がまず顧客に案を提示すべきで、
 最初から専門家でもない顧客に聞くなら、
 特許事務所が代理する意味がないだろう、と思ったものです。

 副所長の話を聞いて、特許事務所は今でも同じ姿勢なのか
 (特許事務所は一切責任を取りたくないのか)と半ばあきれてしまいました。
 
 結局、副所長の戯言は無視し、私の補正案を顧客に提示して了解をいただき、
 審査官に事前に検討してもらったら、審査官はこれでOKと言ってくれ、
 無事に特許査定になったのでした(顧客は驚き喜んでくれました)。

 このような、顧客に責任を委ねて、
 顧客の方針の範囲でしか作業をしない弁理士は、論理的思考能力が育たず、
 いつまでも難しい案件に対処できないことになります。

《エピソード5(知人との会話)》
 一家言もっている方と、その方の考えについて議論することがあります。

 私としては、その方の考えを、その方の言葉で聞きたいのですが、
 その方は、自分の説明はそこそこに切り上げて、
 「この本を読むともっとわかるよ」と、結構厚くて、文字がびっしり詰まった
 相当に集中しないと読めない単行本を貸してくれたりします。

 私は、彼が自分の言葉で説明する努力をしてくれたら、と思ってしまいます。

 例えば、私が誰かと知的財産の話をする際に、私がその方に、
 「特許法の教科書を一冊でも読めば私の話がもっとわかると思います」
 などと言って、特許法の教科書を貸すことはありません。

 私は、自分の興味のある話を人に話すときは、
 自分なりの理解を、自分の言葉で説明する努力をします
 (聞く方にとっては、ありがた迷惑でもあるのですが)。

 当然、私の説明が解り難ければ、相手から解り難い等の注文がつくわけですが、
 そこで、自分の説明を解り易くする(論理的道筋を明瞭にする)努力をすると、
 結果的に自分の論理的思考能力が鍛えられることになります。

 多くの日本人はそのようなことをせず、自分の考えでなく、
 自分が読んだ本に代わって説明してもらおうということをしますが、
 これでは、自分の考えを論理的に整理する機会を自ら捨てることになり、
 論理的思考能力は育ちません。

******

 以上のように、私の身近な日本人とのやりとり、及び
 一見、論理的思考能力が高いと見られている特許事務所でのやりとりから
 我が国の中枢のエリート官僚による『桜を見る会』でのやりとりに至るまで、
 日本人は、条件反射のように、まず責任回避をする方向に頭を使うので、
 これでは論理的思考能力は育たないし、その責任回避の在り方が、
 丸山眞男・河合隼雄の古典的分析で説明し尽くせるほど、
 今の日本人も、戦前の日本人とほとんど同じだというのは驚くべきことです。

 このままでは、我が国は、国民全体が思考停止した中で、
 戦前、原爆投下されるまで戦争を続けたのと同じように
 TPP・FTAのような重要な政治課題に自らの責任で向き合うことなく、
 ただただ流されてしまい、その挙句、
 原爆投下のような取返しのつかない破滅的カオスに陥るのではないかと
 悪夢のようなことが頭をよぎる今日この頃です。
posted by Dausuke SHIBA at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2018年09月30日

将棋界の天才達と共に歩んだわが将棋人生

 中学生でプロ棋士(四段)となり、あっという間に七段になった藤井聡太七段と、
 引退した加藤一二三九段の人気で、昨年から将棋界が盛り上がっています。

 将棋は、日本古来のゲームであり、
 相手の王様を詰めば勝ち、というシンプルなルールですが、
 勝負がつくまでの過程が複雑で長時間(覚えたて以外は30分以上は)要するので、
 勝った時のこれ以上にない快感と、負けた時の狂おしい悔しさを味わった人には、
 将棋から抜け出すのが難しいことを多くの日本人が知っています。
 
 将棋の棋戦も、江戸時代に世襲名人制が確立して以降、
 戦後は、新聞を中心に、最近ではネット系メディアもスポンサーとなって、
 実力名人制を中心に、多くの天才棋士・スター棋士が間断なく生まれています。

 それにも拘わらず、将棋は、
 将棋というゲームの存在を知っているだけという多くの人たちから、
 一部の嵌り込んだ、今でいうおたくと言ってよい、
 極端に男性に偏ったマニアックな愛好家の中で行われる古色蒼然としたゲーム
 という評価が長期間にわたり常態化していました。

 実際、私の周りの将棋好きの男達は、中学生にして扇子を常備したり、
 贔屓のプロ棋士の話を異様な情熱をもって語り合うのが何よりも楽しみで、
 (私も含めて)女性の影など微塵もない 
 (但し、そのことをほとんど気にしていない)方々ばかりでした。

 このように、社会的には長年にわたり一定の存在感がありながら、
 マイナーなおたくゲームとしてしか認知されなかった将棋でしたが、
 羽生善治名人(十九世)(若い頃は美少年)が登場したあたりから、
 女性ファンが増えて、

 羽生名人ご自身も女優の畠田理恵さんと結婚するなどという、
 将棋史上初の快挙を成し遂げ、そして今では、

 とても中学生には見えない落ち着きと老けっぷりながら、
 ときおり見せる笑顔がこよなくチャーミングということで、
 お母様くらいの女性ファンが多くいる藤井七段と、
 かつてはおたく将棋少年の多くが憧れた希代の天才で、
 いまや、アイドルのような存在となった加藤九段の活躍で、
 マニアックな将棋愛好家の居心地が多少改善された今日この頃といえます。

 ******

 このような状況の中、先日(9/24)、
 将棋棋士の瀬川晶司五段原作の映画『泣き虫しょったんの奇跡』を観てきました。
 
 この映画を観て、長い間忘れていた、
 私が将棋に熱中していたときのことを思い出してしまいました。

 そこで、今回、私が一時嵌って熱中し、
 その後つかず離れずのお付き合いをしている将棋との関わりを、
 天才たちの興亡にあわせてまとめておこうと思い立ちました。

 以下では、永世名人又はその資格者を「名人」、
 それ以外の棋士はその当時の段位で敬称します。

《1960〜1970年代:大山名人-升田九段の時代》


 映画の瀬川少年が将棋に目覚めたのは、
 中原誠名人(十六世)の時代が始まる頃で、
 谷川浩司名人(十七世)が中学生でプロ棋士になって話題になった1976年です。

 私が将棋に目覚めたのは、
 私が生まれた頃に既に5期連続で名人位を防衛して永世名人となり、
 その後、名人位を升田幸三九段に2期明け渡した後に名人位に復帰して以降、
 5期連続(その後結局13期連続)で名人位を防衛し、
 新設されたタイトル戦を次々奪取していた、
 不動の大名人である大山康晴名人(十五世)の時代(1960年代)でした。

 ******

 大山名人は絶対的な強さで、
 その後も続く升田九段の挑戦をことごとく撥ね付けていました。
 
 大山・升田を追う次世代棋士としては、
 その中で最強棋士だった二上達也八段
 打倒大山の急先鋒なるも若くして亡くなった山田道美八段
 関西の盟主でミリオンセラー歌手でもあった内藤國雄八段
 神武以来の大天才として既に伝説となっていた加藤一二三八段
 (今考えると加藤一二三八段は当時20代だったのですね)
 等の天才が次々と台頭していました。

 また、大山・升田と死闘を重ねた前世代の天才・鬼才も健在で、
 戦後の実力名人制下での初代名人である木村義雄名人(十四世)、
 その木村名人と覇を競った塚田正夫九段
 (「九段」は今と異なり、名人経験者にだけ許されており、
 当時は塚田九段と升田九段だけがもつ将棋少年にとって畏れ多い称号でした)、
 瀬川五段の遠い先達である素人上がりの花村元司八段、
 大山名人の兄弟子で熱血剛力でならした大野源一八段
 絶妙な歩の使い手で「小太刀の名手」と呼ばれた丸太祐三八段
 将棋解説の達人だった優しいおじちゃま原田泰夫八段等の、
 大ベテランもお元気でした。

 私の親の世代は、将棋名人の代名詞といえば木村名人のことであったほどに、
 木村名人は当時既に伝説の大名人でした。

 花村八段も並の素人ではなく、賭け将棋で生計を立てることができるほどの、
 プロもうかつには指せないほど強く、瀬川五段と同様に周りに促されて、
 プロの編入試験に合格して五段付け出しでプロ棋士となり、
 八段まで上り詰めた鬼才というしかなく、
 丸坊主の異様な相貌で、私には違う世界に住む人物としか思えませんでした。

 ******

 しかし次世代の天才達が大山名人に肉薄しようにも、
 彼らには、その前に升田九段というとてつもなく巨大な壁が聳え立ち、
 大山名人の全冠制覇(五冠王)の時代が、巨人・大鵬・卵焼きと同様に
 永久につづくのでないかと思えるようでした。

 大山名人は、とにかく全冠制覇しているときの方が多く、
 王将・王位・棋聖の賞金の安いタイトルは、時々、二上八段達にとられるのですが、
 次の年には挑戦者となってタイトルを取り返してしまうので、
 二上八段達は悪夢にうなされる日々であったことでしょう。

■当時の私■

 映画では、小学生だった瀬川君が隣家の鈴木君と、
 毎日毎日飽きずにどちらかの家で将棋を指し続け、
 瀬川君のお父さんに言われて、町の将棋道場に行くようになります。

 私も小学生から中学生にかけて近所に絶好のライバルがいて、
 当時流行食品となっていた即席ラーメンを食べながら、
 彼と毎日のように将棋を指していました。

 そして、私と彼は、日曜日になると、
 私と彼の家から近い武蔵小山駅前の路地裏の
 映画の将棋道場よりも狭い場末の将棋部屋で、
 たばこの煙が濛々と立ち込める中、1日中将棋を指していたのでした。

 そこに集う怪しげなおじさん達はとにかく将棋が強く、
 私もなかなか勝つことができず、
 将棋が強いとはどういうことなのかを実感したものです。

 将棋に熱中していた小・中の頃は、私は強い方で、
 アマチュア2級の棋力があるといわれ、
 小学時代のライバルの友には圧倒的に勝ち越していましたが、
 彼は負けても負けても、私は勝っても勝っても、
 お互いに将棋を指すことが楽しく、
 映画の瀬川君と鈴木君の関係と全く同じでした。

 しかし、中学では、私が入った将棋同好会には、
 3年生の部長になかなか勝てず負け越し、
 彼が卒業して「俺の天下がくるぞー」と思ったら、
 後輩の1年生に棋力1級の強豪が入ってきて、彼には負け越しで、
 ついに私の時代が来ることはなかったのでした。

《1970〜1980年代:中原名人-米長八段の時代》

 そして、私が高校に入って大学受験で将棋から遠ざかるまで、
 大山名人が君臨し続けた後の中原名人の時代が到来します。 

 私が高校に入った頃、
 難攻不落の大山城がようやくぐらついて、これで二上・内藤・加藤時代かと思ったら、
 大山名人は中原名人に名人位を明け渡し、
 この中原名人がまたまた絶対不動の名人になってしまったのでした。

 中原名人に挑戦するには、その前に、大山名人を倒さねばならないのですが、
 大山名人にトラウマを抱える二上・内藤・加藤各八段はなかなか勝てず、
 そうこうしているうちに、
 中原名人のライバルの米長邦雄八段が名人位以外のタイトルを制覇してきたため、
 ついに二上・内藤・加藤時代は来ることがなかったのです
 (この無念、私にはよくわかりました)。

 しかし、大山時代の升田九段に匹敵する中原時代の米長八段も、
 中原名人から名人位をなかなか奪取できず、そうこうしている間に、
 加藤一二三八段が最後の力を振り絞って中原名人から名人位を奪取、
 その翌年は若き天才谷川名人が加藤一二三名人から名人位を奪取してしまい、
 米長八段が中原名人に代わる盟主となる時代は遂に来なかったのでした。

 ******

 加藤一二三九段は、今では好々爺の老人アイドルのようですが、
 徹底的に頭を押さえつけられた大山時代を生き抜き、
 1期とはいえ、全盛時の中原名人から名人を奪取しており、
 やはりとてつもなく強い天才なのです。

 私は、NHK将棋講座で加藤一二三九段の解説もよく聞きました。

 加藤一二三九段は当時も奇行で知られ、相当に変人であることで有名でしたが、
 将棋の解説は歯切れよく素人にとても解りやすいので、
 頭のいい人はやはり凄いなということが強く印象に残っています。

■当時の私■

 このころ私は、興味が映画の方に移り、
 小・中の頃ほど将棋への情熱はなかったのですが、
 相変わらず強かったので、高校のクラスメートの将棋部の部長から、
 将棋部の対外試合に助っ人で参加するよう言われて、
 時々他流試合を楽しんでいました。

 大学生になってからは、ほとんど将棋は指しませんでしたが、
 ちょっと自慢してよいかもしれないことを含めて思い出があります。。

●東京理科大将棋部の対局で勝ってしまったこと
 
 私は実は1年間だけ東京理科大学に在籍していたことがあり、
 入学した年に将棋部でも入るかと思い、おためし対局をしてみたのです。

 そのとき、将棋部の先輩が1局手合わせしてやるとのことで、
 久々に将棋を指すことになりました。

 ところが、その将棋、私が勝ってしまったのです。

 私はその頃何も知らなかったのですが、東京理科大学将棋部といえば、
 当時から今に至るも、大学将棋界では名だたる強豪で、
 上級生部員が新入りの1年生に負けることなどあってはならないことだったのです。

 私が勝ったとき、将棋部内が騒然していたような記憶が今も残っています。

 結局、将棋部に入らず勝ち逃げしてしまいましたが、
 当時の先輩方、申し訳ありませんでした。

●卒論を書いた研究室の助教授に勝ってしまったこと

 広島大学で卒論を書いた研究室の夏合宿で、
 卒論の指導を受けた助教授と将棋を指しました。

 勝つつもりはなく、、助教授への攻撃を一切控えて守りに徹したのですが、
 助教授も攻めてこず、
 そのうちに、助教授は失着で自爆してしまい連敗してしまったのです。

 当然のことながら助教授は機嫌が悪くなり、
 研究室の先輩からひやかされ、とてもバツが悪かったことが懐かしい。

《1980〜1990年代:
 中原名人・谷川名人・羽生名人三つ巴の時代》

 谷川名人(当時八段)は、中原名人と死闘を繰り広げ、
 谷川時代が来るかに見えたのですが、
 当時六段くらいであった羽生名人(十九世)が台頭して、さらに、
 羽生世代(佐藤康光九段森内俊之名人(十八世)等)が怒涛の如く押し寄せた結果、
 谷川名人は押し流されずにいるのがやっとということになってしまいました。

 米長九段は、長年のライバルであった中原名人から最後に名人位を奪取し、
 中原時代に引導を渡したと同時に、翌年に羽生名人に名人位を奪取され、
 その後の羽生時代の幕開けをつくったという、
 いわば現在に通じる時代を創った偉大な天才です。

■当時の私■
 
 当時、私は企業勤めをしていてほとんど将棋を指すことはなかったのですが、
 宇都宮在住時のある年の正月、デパートで開催された将棋まつりを見に行きました。

 公開対局が中原名人vs米長九段で、
 解説が谷川名人(当時九段)と林葉直子女流五段という超豪華な顔ぶれでした。

 公開対局は、多くの将棋ファンが囲む会場に設営されたひな壇上で、
 盤を挟んで和服姿の中原名人と米長九段が対峙しており、
 水を打ったような静謐の中、背筋を伸ばした両雄が、
 気迫のこもった駒を打ち付ける音だけが響いていました。

 この荘厳で神々しい光景は今も忘れられません。

 しかも、見守るファン(あの懐かしい将棋おじさん達が多数)は、
 米長九段が中原名人からどうしても名人位を奪取できず、
 諦観すら漂う当時の米長九段の心中をよく承知しており、
 ほとんどのファンが米長九段の勝利を期待していたと思います。
 
 しかし、ファンが手に汗を握り固唾をのんで見守る中、
 米長九段は、彼らしい奇手を連発したにも拘らず負けてしまいました。

 勝負とは非情なものです。

 しかし、米長九段は、台頭する羽生世代を前にしてそこから一大奮起、
 この公開対局の翌年に、中原名人から念願の名人位を奪取して、
 棋界の頂点に立ったのでした。

 ******

 林葉直子さんは、中学生のときに、
 それはそれは清楚な美少女棋士としてデビューして、
 タイトルも数多く取り、女流棋界を牽引するスター棋士で、
 公開対局での美しいお姿に見とれてしまいました。

 その後、まさかの中原名人とのスキャンダルがショッキングでしたが、
 関係者はドロドロであったと思いますが、地味な将棋界にとっては、
 棋界を代表する大名人と美少女棋士の恋という、描きようによっては、
 映画の題材になるような華のある話題であったと思います。

 このスキャンダルは、お二人のキャリアを損なうものではなく
 恥じることではないと私は思っています。
 
《2000年代:羽生名人の時代から藤井七段まで》 
 
 この間は、私も会社勤めから特許事務所勤めに転職し、
 さらに自前の特許事務所を開設するという激動の日々を送っており、
 将棋を指すことはほとんどなくなりましたが、
 1つだけエピソードがあります。

 ******

 東京の特許事務所に勤めていた頃、
 結構シビアな状況が続いて気が滅入った時期がありました。

 気分転換と思い、秋の連休に、
 自宅から近い早稲田大学付属高校・中学の学園祭を観に行きました。

 ざわつく校内を歩いていたら、中学の将棋部の展示教室が目に留まり、
 あまりの懐かしさにふらりと入って、将棋部員と1局指しました。

 相手は学生将棋の強豪である早稲田大学の付属中学の将棋部員。

 こちらは将棋の駒を握るのも10年ぶりで、手元がおぼつかないロートル。

 勝負は見えていたかのようでしたが、何と、私が勝ってしまったのです。

 翌年の学園祭にも立ち寄って、また将棋部員と1局指しました。
 
 その時は、相手の部員の周りで、他の部員が、
 「あのおじさん結構強いぞ」とひそひそ話をしていたのが聞こえ、
 将棋部内では有名人であったようで面白かった記憶があります。

 そして、そのときも私が勝ってしまいました。
 
 私はこの2年間のたった2局の対局に心が癒され、
 仕事の転機を乗り切れたかなと思っています。

 早稲田中学の将棋部には心から感謝いたします
 (でも、早稲田大学付属中学の将棋部としてはもっと鍛錬しないとね)。


■最近の私■

 昨年(2017年)、
 わが将棋人生を共に過ごしたライバルの友の訃報が届き、
 これ以上悲しいことはありませんでした。

 彼とは、10年ほど前までは2年に1度ほど会う時があり、
 会えば「1局指すか」となり、
 彼の大学教員としての近況とか、私の会社での近況を話すこともなく、
 黙々と半日ほど指し続け、家で一緒に酒食することがあっても、
 外に飲みに行くことはついにありませんでした。

 純粋に将棋を指すひと時を楽しむことができた、かけがえのない友であり、
 『泣き虫しょったんの奇跡』を観ている間、
 彼との貴重な時間をもう持つことができないという喪失感を、
 改めて思い起こしまい、涙が次から次から溢れ出て困ってしまいました。
posted by Dausuke SHIBA at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2017年10月15日

ロス・プリモスと東京ロマンチカ

 先日(2017年10月5日)、
 「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」(以下「東京ロマンチカ」)
 のメインボーカルの三條正人さんが亡くなりましたね。

 もう8年前になる2009年に、東京ロマンチカの少し先輩になる
 「黒沢明とロス・プリモス」(以下「ロス・プリモス」)
 のメインボーカルの森聖二さんが亡くなっています。

《たそがれの銀座》

 私が生まれた頃から始まったと言われている高度経済成長時代が、
 東京オリンピックが開催され、新幹線が開通した1964年を経て、
 ピークが続いていた1968年に、
 TVと近所の武蔵小山商店街のスピーカーから流れてきたのが、
 ロス・プリモスの『たそがれの銀座』でした。

 私は中学生でしたが、一回聴いて耳にこびりつき、
 今に至るもとても好きな曲となりました。

 『たそがれの銀座』は、
 地方から出て東京での生活と仕事に慣れてきたであろう、
 おそらく水商売で生計を立てている若い男が、
 銀座の華やかな風俗の中で恋と酒を知り、一丁前になるまでを、
 ボサノバが入った軽やかなメロディにのせて、
 銀座1丁目から8丁目までの数え唄にしている名曲です。

 『たそがれの銀座』がヒットしたのは、
 国内の道路舗装が隅々までいきわたり、
 雨の日にも、会社の帰りの男と女が、
 東京・横浜の繁華街に立ち寄って帰宅するまでに
 長靴を履かないで済むようになっていた時代といってよいでしょう。

 『たそがれの銀座』の少し前の
 『ラブユー東京』が大ヒットした1967年頃から、
 華やかな都会の中で楽しむ中産階級の若い男と女を主人公にした歌が
 様になってきたように思います
 (例えば『ブルーライトヨコハマ』(1968年)もその代表曲でしょう)。

 ちなみに、
 マクドナルドの第1号店が銀座にできたのが3年後の1971年です。

 『たそがれの銀座』の6年前に映画と歌でヒットした
 『銀座の恋の物語』(1962年)は、
 銀座のアパート(があったんですね)に住む若い男(石原裕次郎)と、
 戦争のトラウマが残る若い女(浅丘ルリ子)のラブストーリーで、
 まだまだ、高度経済成長下での地方から出てきた男女の物語
 とはいえなかったように思います。

******

 『たそがれの銀座』は、今聴いてもオシャレですが、
 当時、私が聞いたときには、ちょっとだけ時代がズレていた感じがしました。

 『たそがれの銀座』の第1番に、
  ♪ 一丁目の蛯ェ ためいきついて
  ♪ 二丁目の蛯ェ ささやいた

  第4番に、
  ♪ 数寄屋橋は きえても
  ♪ 銀座はのこる
  ♪ 柳とともに いつまでも

 とあるのですが、『たそがれの銀座』がヒットするほんの少し前に、
 銀座の蛯ヘ伐採されてしまっていたのでした。

 また、『たそがれの銀座』の第3番に、
  ♪ 三丁目のフユ子は 小唄が上手
  ♪ 四丁目のナツ子は ジャズが好き

 とあるのですが、いくらあの頃でも、
 小唄が上手な銀座の女は相当に古風で、私などイメージできなかったものです。

 作詞家の古木花江さん(星野哲郎又はその夫人といわれているようです)が、
 星野哲郎さんであれば、当代超一流の作詞家で、
 お若い頃は、当然に歌詞通り、日常を銀座で活躍されたでしょうから、
 柳に思い入れがあるのも当然で、小唄が上手な小粋な女もいたでしょうし、
 当時としても、『たそがれの銀座』の第4番にある
  ♪ 七丁目の酒場で おぼえたお酒
  ♪ 八丁目のクラブで 知った恋

 のようなことは、地方出の若い男にはまずありえないことですが、
 星野哲郎さんの若い頃がモデルとあれば百%納得です。
 
《ロス・プリモス》

 『たそがれの銀座』を歌っていたロス・プリモスは、
 当時のサラリーマンのガキにすぎない私からみれば、
 どこから見てもおじさん達の集まりでしたが、
 テカテカのポマードヘアと黒いスーツで統一され、
 ピカピカのエナメル靴を履き揃えた、
 ダンスホールかキャバレーの舞台から抜け出たような、
 とても怪しく胡散臭い、
 玄人としか形容のしようがない大人の世界の人達でした
 (森聖二が当時29歳、今の私より遥か年下というのは信じ難い)。

 ロス・プリモスは、『たそがれの銀座』の少し前に、
 今でもカラオケの定番として有名な『ラブユー東京』を大ヒットさせており、
 私はこちらもとても好きですが、
 『ラブユー東京』が、地方出の若い女が、
 七色の虹がきらめく憧れの東京で恋に夢中になっている様を歌い込んでいて、
 田舎臭さが無きにしも非ずで乗り切れなかったところ、
 『たそがれの銀座』のモダンさの方がピッタリ嵌ったという感じです。

《東京ロマンチカ》

 『小樽のひとよ』(1967年)は、
 『たそがれの銀座』と同時期にヒットした東京ロマンチカの名曲ですが、、
 私がTVで初めて聴いたときは、
 こんなアナクロな歌がなんでヒットするのかと思ったものです。

  ♪ 逢いたい気持ちが ままならぬ
  ♪ 北国の街は つめたく遠い
 で始まる、ベタでくさい歌詞を、これまた、
 戦前の映画雑誌から抜け出たような白面の古典的二枚目である三條正人が、
 透き通った高音で歌うのですから、こういう歌はこの現代にありえねぇ〜
 と思ったのですが、なんと、

 『君は心の妻だから』が立て続けにヒットして、これがまた、
  ♪ 愛しながらも さだめに負けて
  ♪ 別れたけれど こころはひとつ
 とさらに輪をかけた、ベタベタのくさい歌詞を、
 三條正人が切々と歌うのですから、
 この現代には理解できないことが起こるものだと思ったものです。

 『小樽のひとよ』は、
 小樽から東京に出て水商売で仕事をする二枚目の若い男が、
 故郷に一人残した恋人を想う歌ですが、
 故郷で女を泣かすだけ泣かせ、東京でも女を泣かせ続けた挙句に、
 結局はやっぱり故郷の女を想うというこの若い男は、
 三條正人にイメージがピッタリ重なってしまいます。

 曲のイントロをクラシックギターで一見真面目そうに爪弾く鶴岡雅義は、
 裏で三條正人を操る怪しい黒幕のように見える一方で、
 全員が、真っ白なスーツと白のエナメル靴で揃え、
 ロス・プリモスと正反対の清潔ぶりなのですが、
 グループ名が「東京ロマンチカ」とテカテカの字面と響きで、
 ロス・プリモスよりもかえって怪しい胡散臭さが増幅したものです。

《森聖二さんと三條正人さん》


 森聖二さんの柔らかいが輪郭の明瞭な歌声は女唄によく合い、
 ロス・プリモスは女唄が多く、
 『たそがれの銀座』はめずらしく男唄であったように思います。

 女唄のときは、森聖二さんの歌だけ聴くと、
 わけありの水商売の女を彷彿とするしかなく、
 これを男が歌っていると思うと気色の悪さが漂いそうにも思いますが、
 全くそうなっておらず、どれも品のよい名曲ばかりです。

 三條正人さんの透き通った高音は、女を想う若い男に合っており、
 東京ロマンチカは男唄が多かったように思います。

 そして『小樽のひとよ』も『君は心の妻だから』も、
 聴いているうちに、ドラマの世界に引き込まれる迫力があり、
 特に、大人になって、
 たとえ女たらしであっても純愛はありうる、
 女性は三條正人さんがたとえ本当に悪い人であっても好きになることがある、
 などということを知るようになってからは、
 やはり名曲であったということを再認識しています。

 両グループの歌の品が落ちないのは、
 森聖二さんと三條正人さんの半端でない圧倒的な歌唱力がなせる技で、
 バックコーラスの安定感とリーダーの確かな演奏技巧が絶妙にサポートして、
 グループ歌唱として極めて完成度が高いことに裏付けられているためと思います。

 東京のイメージが強烈な森聖二さんが大阪出身、
 北国のイメージが強烈な三條正人さんが滋賀出身というのも、
 両者のイメージが如何に演出によって喚起されていたのかがよくわかります。

 そして、森聖二さんも三條正人さんも、
 60代を過ぎても歌唱力が衰えておらず、名曲の多くを、
 当初のままに歌い続けることができたというのは驚異的で、
 プロ中のプロというしかありません。

 森聖二さんが亡くなったときに、東京ロマンチカが追悼として、
 ロス・プリモスのヒット曲を歌唱したことは知っていましたが、
 三條正人さんの『ラブユー東京』は聞いてみたかったです。

 ロス・プリモスと東京ロマンチカには、
 歌謡曲の楽しさ、大人の世界、そしてプロの何たるかを教えていただいたこと、
 本当に感謝申し上げます。

******

 三條正人さんのような、放っておくと悪い女の餌食になりそうな二枚目には、
 しっかりと掴んで離さない年上の美女が守っていることが多いように思います。

 三條正人さんの場合も、独立騒動のときに干されたりして、
 苦難の芸能人生を歩んだようですが、
 私も好きであった美人女優の香山美子さんが人生を共にしてくれました。

 香山美子さんに捨てられずに最後まで看取ってもらったのは、
 とても幸せなことであったと思います。

 三條正人さんの葬儀に出られた香山美子さんの写真を久々に拝見して、
 相変わらずお美しいので安心した次第です。
posted by Dausuke SHIBA at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2017年09月18日

私の事務所とご近所のご案内

 9月の3連休の最終日、台風一過の晴天となりました。

 夏以降忙しかったのですが、
 あまりにも長期間にわたり作業机の上を放置していたら、
 作業に差し障りがでそうになってきたので、一念発起して、
 長らくせねばならないと思っていたこともすることにしました。

 「柴特許事務所」は、今年(2017年)4月から、
 都営新宿線「曙橋駅」の近くの市谷薬王寺ビル3階に引っ越して
 新装開店しているのですが、
 ブログ本体でも、このミニブログでもほとんど案内をしておらず、
 私のブログ顧問から「何とかしろ」と尻を叩かれ続けていました。

 そこで、半年遅れですが、
 私の事務所とご近所をご案内申し上げることとなりました。

《最寄りの駅》

 以下の3つが最寄り駅です。

@都営大江戸線「新宿西口駅」から3駅目の「牛込柳町駅」
A都営新宿線「新宿駅」から2駅目の「曙橋」
B都営バス「新宿駅西口⇔練馬駅」の「薬王寺町

 都営バス「薬王寺町」で下車するとほぼ目の前に、
 「柴特許事務所」が入る「市谷薬王寺ビル」が見えますので、
 以下では、@及びAで降りた後の歩行経路をご案内します。

《「牛込柳町駅」から「柴特許事務所」に》

 「牛込柳町駅」は、今年(2017年)9月1日より、
 外苑東通り口の地下道が開通して、
 外苑東通り沿いに直接出ることができます。
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 外苑東通りは、
 早稲田から四谷三丁目を経由して六本木通りに繋がる幹線道路ですが、
 「牛込柳町駅」から外苑東通り沿いに四谷三丁目の方向に歩くと、
 10分足らずで「市谷薬王寺ビル」の前に到着します。

 この区間は道路拡張工事が続いており、昨年に用地買収が完全に終了して、
 急ピッチで仕上げの工事をしています。

 昨年までの状況を写真に記録されている几帳面な方がいらっしゃいますので
 参考までに → http://view.tokyo/?p=25470

 来年(2018年)には、電柱地中化、街路樹植栽、歩道の化粧タイル化がなされた、
 美しい通りになると思います。

 その外苑東通りを四谷三丁目に向けて歩くと、直ぐに、
 外苑東通り沿いに聳え立つ超高層高級マンションと、
 左隣りにこれも巨大な防衛省のレーダー鉄塔が見えてきます。
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 外苑東通り沿いのご近所には、
 新宿ならではの興味深いビルが見出されます。

 例えば、このビルは横幅がおそらく2mなくて、
 奥行方向にしか寝ることができません。
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 また、この3棟が隣接しているように見えるビルは、
 実際には、両サイドのビルは後ろのビルで繋がって「コの字」型になり、
 「コの字」の内側の狭い空間に真ん中のビルが建っている、
 という態様でした。
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 新宿の極限までの土地利用には驚かされます。

 超高層高級マンションを目安にその方向に10分弱歩くと、
 超高層高級マンションの外苑東通りを挟んだ対面に、
 こじんまりと可憐なクロームイエローの「市谷薬王寺ビル」が見えます。

 超高層高級マンション側↓
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 超高層高級マンションの麓の緑地公園↓
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 緑地公園から見た、こじんまりと可憐なクロームイエローの「市谷薬王寺ビル」↓
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 下から見上げるとこんな感じで、幅2m以上は優にあります。
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 「市谷薬王寺ビル」には、
 テラスの地階にヘアサロンが、1階に子供英会話教室が、
 3階に「柴特許事務所」が入っています。
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 ビルの入り口奥のエレベーターで3階に上がると、
 「柴特許事務所」の入口に辿り着きます。
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《「曙橋駅」から「柴特許事務所」に》

 「曙橋駅」の場合は、
 地上に出るまでと、そこから更に外苑東通りにでるまで、
 階段と上り坂を歩くことになるので、足に自信のある方以外は、
 エレベーターが使えるA3「防衛省方面」出口を利用することをお奨めします。
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 A3出口前は靖国通り沿いですが、
 すぐ左に陸橋(これが「曙橋」)が交差しているのが見えます。
 この陸橋を走るのが外苑東通りです。
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 そこで、A3出口から外苑東通りまで上り坂を歩きますが、
 そこから聳え立つ防衛省のレーダー鉄塔を見ることができます。
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 こちらからは、防衛省の桜並木沿いを歩くことになります。
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 防衛省の薬王寺門です。
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 外苑東通り沿いに出て、四谷3丁目とは逆向きに歩くと、
 直ぐに、超高層高級マンションが見えますので、それを目安に5分弱歩くと、
 超高層高級マンションの外苑東通りを挟んだ対面に「市谷薬王寺ビル」が見えます。
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 私の事務所のご近所はこんな感じでありましたが、
 他にもいろいろと話題になるところがご近所であったりします。
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 ******

 @Aのどちらから行っても、外苑東通り沿いは緩やかな上り坂ですが
 (ということは「市谷薬王寺ビル」は丘の上にあることになります)、
 靖国通りから外苑東通りに出るまでの坂道を考慮しますと、
 足に自信のない方は@から、筋トレしたい方はAから行くとよいと思います。

《柴特許事務所にようこそ》

 「柴特許事務所」に入ると、まず、
 お客様とのミーティングスペースがあって、
 奥に、私の執務スペースがあります。
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 ミーティングスペースは、いつでも暖かいコーヒーを用意しており、
 暑い日は、冷たいお飲み物を用意させていただきます。
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 お客様は、席からベランダ越しに、借景ではありますが、
 超高層高級マンションの緑地を見ながらミーティングできるので、
 心が癒されるようになってます。
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 時間潰しのための多くの古本と地球儀もあります。
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 とうことで、喫茶店でくつろぐ雰囲気で、自由にざっくばらんに、
 お仕事と知的財産のことを語っていただけるようにしてみました。

 私は、執務スペースで、毎日、
 ベランダ越しに、DNP(大日本印刷社)本社の巨城を見ながら、
 書きものをしています。
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 天気の良い夕方は、DNP城に反射する夕日がとりわけ美しいです。
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 夜景もなかなかと思います。
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 テラス入口も、何故かライトアップされています。
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 私の事務所とご近所はこのような雰囲気ですが、
 よろず相談承りますので、
 お近くにお越しの際は是非お立ち寄り下さい。
posted by Dausuke SHIBA at 14:55| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2016年04月11日

早稲田大学の入学式から桜満開の神田川へ

 春の夕方、早稲田駅からその先の神田川まで散歩してみました。

 早稲田駅から都電荒川線に乗って向原まで10分、
 向原駅で降りて歩くと当所池袋オフィスなので、
 当所新宿オフィスから夏目坂を下って早稲田大学を抜け、
 早稲田駅までのコースはもう何回も行き来しているのですが、
 この時期、神田川の方にでるのは初めてでした。
 
 大隈講堂の一歩手前の早大通りの花桃が満開でした。
 当所の前にある枯れ木のような花桃とは違います。
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 いつもいない交通整理員がものものしいと思ったら
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 本日は、早稲田大学の入学式でした。
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 大隈講堂前にある喫茶店「ユニカフェ125」
 (今回のブログを書く際に調べてみて初めて店名を知りました)。
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 神田川にかかる最寄りの橋に入ったら、両サイドを覆う満開の桜に遭遇しました。
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 桜の花びらが川沿いに流れていきます。
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 リバーサイドを歩いてみることにしました。
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 なかなかの絶景が続きます。
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 上の画像の川面の真ん中に泳いでいる鴨がいます(アップすると、このように)
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 川沿いの策に、早稲田川柳会の川柳が延々と貼ってありました。
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 そして「面影橋」に。何の変哲もない橋です。
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 名前の由来もきちんと説明されています。
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 早稲田駅から面影橋駅まで歩いて15分、
 今度は面影橋駅から早稲田駅まで都電で帰りました。
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 チンチンのドア開閉音を聴いての都電からの景色もおつです。
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 都電早稲田駅を後にして、家路につきました。
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2016年01月09日

神田明神に初詣(2016年1月7日)

 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 「柴さんも2年目だから、仕事の神様を祀っている神田明神に1度行ってみませんか」
と、旧友の照山社長に誘われて、ご一緒することになりました。

 御茶ノ水駅から神田古本屋街へは幾度も足を運びましたが、神田明神は行ったことがありませんでした。

 御茶ノ水駅の聖橋口で待合せて歩いて5分、こんなに近いところとは。

 甘酒屋など20件ほどの屋台を抜けると立派な門構えがあります。

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 門をくぐって出た参道のその先に拝殿が見えました。

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 三が日も過ぎた木曜日の1時半というのに、参道は参拝客の列で埋まっています。
 照山社長が「まずは周囲をみましょう」と拝殿と本殿の脇から裏への道を案内してくれました。

 ちょうど裏側に、「銭形平次の碑」があり、何となくありがたい気持ちになりました。

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 「銭形平次の碑」を見ると、亡くなった銭形平次が懐かしく思えるのですが、私の心の中で懐かしく思い出される銭形平次は、凛々しい大川橋蔵さんのちょんまげ姿でした。

 裏側をぐるりと歩いて参道に戻り、参拝客の列に並んで待つこと20分後に、拝殿でお参りすることができました。

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 参拝客はビジネススーツの方々が多く、仕事の神様であることを実感しました。

 照山社長と私も記念写真を撮っておきました。

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 昨年末に特許出願の番号が26万台に届いておらず、我が国の知財状況はまだまだ回復基調にありません。

 本年は上向いて欲しいものだと、照山社長と屋台で甘酒を呑みながら、しみじみとした新年の昼下がりを味わいました。

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タグ:神田明神
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2015年12月14日

私の散歩コースと「それぞれの漱石」

 夏目坂から早稲田大学にかけては私の散歩コースで、昨日(12/13)の午後も、ブログの記事でも書こうかと思い、大隈講堂の近くの喫茶店に散歩に出かけました。

 大隈講堂の入口をみたら「それぞれの漱石」という立看が目に入り、漱石関係の座談会でも聞けるかと思い「飛び込みで入れるか」と聞いたら「2階に上がってくれ」と言われ、有難いとに2階席に座ることができました(大隈講堂に2階があるとは知らず、これだけでも面白い体験でした)。

 最初は何の催しかわからなかったのですが、手渡されたパンフレットを見たら、新宿区主催、朝日新聞・紀伊国屋書店共催の漱石生誕150年の記念事業の一環ということでありました。

 私が席に着いたときは、ちょうど、全国の小中高生から募集した漱石作品の感想文と絵画の表彰式で、吉住新宿区長が、入賞者に賞状を渡しているところでした。
 吉住区長ご本人を見るのは初めてでしたが、背が高く、姿勢がよく、声がよく通るなかなかの男前でした。
 賞状を受け取る生徒たちも、こんな子が身内にいたら、と思うような賢そうな子ばかり。
 但し、20人余りの受賞者中、男の子はわずか二人で、漱石を読んで感想文を書くのは、男の子には難題かと、やや将来を憂えてしまいました。

 このあと、嵐山光三郎さん(懐かしい。ご健在だったのですね)の楽しい感想文の講評がありました。

 私も高校のときに、あのドキュメンタリータッチの異色作(ですが退屈極まる)「抗夫」を含めて夏目漱石はだいたい読んでいたので、好きでもあり大学受験で大変に役立ったのですが、それきり読んでおらず、嵐山光三郎さんが、「吾輩は猫である」のラストの部分で高校生がよくこんなところに着眼したと褒められたのを聞いて、何十年ぶりかでその場面が脳裏に蘇り、人間の記憶とは面白いものだと思いました(しかし、Wordはなんでかな漢字変換で「抗夫」が出ず「工夫」しかないのか???)

 私の知り合いのベテラン行政書士で漱石演劇団を主催する天辰先生が、今年は「こころ」に取り組まれており、この日も来ているに違いないと思い休憩時間に振り返ったら、案の定トイレに行かれるところをお見かけしご挨拶しました。

 第2部は、イッセー尾形の漱石文学をネタにしたオムニバスの独り芝居でした。
 オムニバスの最初の一篇が、おそらくはジュールベルヌの「地底旅行」をベースに、「抗夫」になって地底旅行の入口があるアイスランドから地底に潜るという、なんともシュールな落語調独り芝居でした。
 噂に聞いていたイッセー尾形の独り芝居を、こんなところで見ることができるとは思いもよらず、日曜日の昼下がり、何とも得をした気分になりました。

 天辰先生は、漱石演劇団で共に活動しているこれまた2枚目のプロパフォーマーの関井君と一緒で、帰りは、三人で、夏目坂の焼き鳥屋に直行し、そのまま忘年会となり楽しい時間を過ごさせていただきました。

 ここのところ、20代の若い方と話しをする機会がなかったのですが、この日は、関井君が教科書で習ったという田中角栄以降の現代史、関井君に影響を与えているゴジラ以降の現代サブカルチャー史など、生き証人として酔っ払いながらの与太話をさせていただきました。

 天辰先生のお孫さんのような世代で、ああ、こういう方が次の時代を担っていくのかと、私もいよいよお呼びでない世代になることを実感し、感慨深いものがあった年末の一日でありました。
タグ:夏目漱石
posted by Dausuke SHIBA at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ