2018年09月30日

将棋界の天才達と共に歩んだわが将棋人生

 中学生でプロ棋士(四段)となり、あっという間に七段になった藤井聡太七段と、
 引退した加藤一二三九段の人気で、昨年から将棋界が盛り上がっています。

 将棋は、日本古来のゲームであり、
 相手の王様を詰めば勝ち、というシンプルなルールですが、
 勝負がつくまでの過程が複雑で長時間(覚えたて以外は30分以上は)要するので、
 勝った時のこれ以上にない快感と、負けた時の狂おしい悔しさを味わった人には、
 将棋から抜け出すのが難しいことを多くの日本人が知っています。
 
 将棋の棋戦も、江戸時代に世襲名人制が確立して以降、
 戦後は、新聞を中心に、最近ではネット系メディアもスポンサーとなって、
 実力名人制を中心に、多くの天才棋士・スター棋士が間断なく生まれています。

 それにも拘わらず、将棋は、
 将棋というゲームの存在を知っているだけという多くの人たちから、
 一部の嵌り込んだ、今でいうおたくと言ってよい、
 極端に男性に偏ったマニアックな愛好家の中で行われる古色蒼然としたゲーム
 という評価が長期間にわたり常態化していました。

 実際、私の周りの将棋好きの男達は、中学生にして扇子を常備したり、
 贔屓のプロ棋士の話を異様な情熱をもって語り合うのが何よりも楽しみで、
 (私も含めて)女性の影など微塵もない 
 (但し、そのことをほとんど気にしていない)方々ばかりでした。

 このように、社会的には長年にわたり一定の存在感がありながら、
 マイナーなおたくゲームとしてしか認知されなかった将棋でしたが、
 羽生善治名人(十九世)(若い頃は美少年)が登場したあたりから、
 女性ファンが増えて、

 羽生名人ご自身も女優の畠田理恵さんと結婚するなどという、
 将棋史上初の快挙を成し遂げ、そして今では、

 とても中学生には見えない落ち着きと老けっぷりながら、
 ときおり見せる笑顔がこよなくチャーミングということで、
 お母様くらいの女性ファンが多くいる藤井七段と、
 かつてはおたく将棋少年の多くが憧れた希代の天才で、
 いまや、アイドルのような存在となった加藤九段の活躍で、
 マニアックな将棋愛好家の居心地が多少改善された今日この頃といえます。

 ******

 このような状況の中、先日(9/24)、
 将棋棋士の瀬川晶司五段原作の映画『泣き虫しょったんの奇跡』を観てきました。
 
 この映画を観て、長い間忘れていた、
 私が将棋に熱中していたときのことを思い出してしまいました。

 そこで、今回、私が一時嵌って熱中し、
 その後つかず離れずのお付き合いをしている将棋との関わりを、
 天才たちの興亡にあわせてまとめておこうと思い立ちました。

 以下では、永世名人又はその資格者を「名人」、
 それ以外の棋士はその当時の段位で敬称します。

《1960〜1970年代:大山名人-升田九段の時代》


 映画の瀬川少年が将棋に目覚めたのは、
 中原誠名人(十六世)の時代が始まる頃で、
 谷川浩司名人(十七世)が中学生でプロ棋士になって話題になった1976年です。

 私が将棋に目覚めたのは、
 私が生まれた頃に既に5期連続で名人位を防衛して永世名人となり、
 その後、名人位を升田幸三九段に2期明け渡した後に名人位に復帰して以降、
 5期連続(その後結局13期連続)で名人位を防衛し、
 新設されたタイトル戦を次々奪取していた、
 不動の大名人である大山康晴名人(十五世)の時代(1960年代)でした。

 ******

 大山名人は絶対的な強さで、
 その後も続く升田九段の挑戦をことごとく撥ね付けていました。
 
 大山・升田を追う次世代棋士としては、
 その中で最強棋士だった二上達也八段
 打倒大山の急先鋒なるも若くして亡くなった山田道美八段
 関西の盟主でミリオンセラー歌手でもあった内藤國雄八段
 神武以来の大天才として既に伝説となっていた加藤一二三八段
 (今考えると加藤一二三八段は当時20代だったのですね)
 等の天才が次々と台頭していました。

 また、大山・升田と死闘を重ねた前世代の天才・鬼才も健在で、
 戦後の実力名人制下での初代名人である木村義雄名人(十四世)、
 その木村名人と覇を競った塚田正夫九段
 (「九段」は今と異なり、名人経験者にだけ許されており、
 当時は塚田九段と升田九段だけがもつ将棋少年にとって畏れ多い称号でした)、
 瀬川五段の遠い先達である素人上がりの花村元司八段、
 大山名人の兄弟子で熱血剛力でならした大野源一八段
 絶妙な歩の使い手で「小太刀の名手」と呼ばれた丸太祐三八段
 将棋解説の達人だった優しいおじちゃま原田泰夫八段等の、
 大ベテランもお元気でした。

 私の親の世代は、将棋名人の代名詞といえば木村名人のことであったほどに、
 木村名人は当時既に伝説の大名人でした。

 花村八段も並の素人ではなく、賭け将棋で生計を立てることができるほどの、
 プロもうかつには指せないほど強く、瀬川五段と同様に周りに促されて、
 プロの編入試験に合格して五段付け出しでプロ棋士となり、
 八段まで上り詰めた鬼才というしかなく、
 丸坊主の異様な相貌で、私には違う世界に住む人物としか思えませんでした。

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 しかし次世代の天才達が大山名人に肉薄しようにも、
 彼らには、その前に升田九段というとてつもなく巨大な壁が聳え立ち、
 大山名人の全冠制覇(五冠王)の時代が、巨人・大鵬・卵焼きと同様に
 永久につづくのでないかと思えるようでした。

 大山名人は、とにかく全冠制覇しているときの方が多く、
 王将・王位・棋聖の賞金の安いタイトルは、時々、二上八段達にとられるのですが、
 次の年には挑戦者となってタイトルを取り返してしまうので、
 二上八段達は悪夢にうなされる日々であったことでしょう。

■当時の私■

 映画では、小学生だった瀬川君が隣家の鈴木君と、
 毎日毎日飽きずにどちらかの家で将棋を指し続け、
 瀬川君のお父さんに言われて、町の将棋道場に行くようになります。

 私も小学生から中学生にかけて近所に絶好のライバルがいて、
 当時流行食品となっていた即席ラーメンを食べながら、
 彼と毎日のように将棋を指していました。

 そして、私と彼は、日曜日になると、
 私と彼の家から近い武蔵小山駅前の路地裏の
 映画の将棋道場よりも狭い場末の将棋部屋で、
 たばこの煙が濛々と立ち込める中、1日中将棋を指していたのでした。

 そこに集う怪しげなおじさん達はとにかく将棋が強く、
 私もなかなか勝つことができず、
 将棋が強いとはどういうことなのかを実感したものです。

 将棋に熱中していた小・中の頃は、私は強い方で、
 アマチュア2級の棋力があるといわれ、
 小学時代のライバルの友には圧倒的に勝ち越していましたが、
 彼は負けても負けても、私は勝っても勝っても、
 お互いに将棋を指すことが楽しく、
 映画の瀬川君と鈴木君の関係と全く同じでした。

 しかし、中学では、私が入った将棋同好会には、
 3年生の部長になかなか勝てず負け越し、
 彼が卒業して「俺の天下がくるぞー」と思ったら、
 後輩の1年生に棋力1級の強豪が入ってきて、彼には負け越しで、
 ついに私の時代が来ることはなかったのでした。

《1970〜1980年代:中原名人-米長八段の時代》

 そして、私が高校に入って大学受験で将棋から遠ざかるまで、
 大山名人が君臨し続けた後の中原名人の時代が到来します。 

 私が高校に入った頃、
 難攻不落の大山城がようやくぐらついて、これで二上・内藤・加藤時代かと思ったら、
 大山名人は中原名人に名人位を明け渡し、
 この中原名人がまたまた絶対不動の名人になってしまったのでした。

 中原名人に挑戦するには、その前に、大山名人を倒さねばならないのですが、
 大山名人にトラウマを抱える二上・内藤・加藤各八段はなかなか勝てず、
 そうこうしているうちに、
 中原名人のライバルの米長邦雄八段が名人位以外のタイトルを制覇してきたため、
 ついに二上・内藤・加藤時代は来ることがなかったのです
 (この無念、私にはよくわかりました)。

 しかし、大山時代の升田九段に匹敵する中原時代の米長八段も、
 中原名人から名人位をなかなか奪取できず、そうこうしている間に、
 加藤一二三八段が最後の力を振り絞って中原名人から名人位を奪取、
 その翌年は若き天才谷川名人が加藤一二三名人から名人位を奪取してしまい、
 米長八段が中原名人に代わる盟主となる時代は遂に来なかったのでした。

 ******

 加藤一二三九段は、今では好々爺の老人アイドルのようですが、
 徹底的に頭を押さえつけられた大山時代を生き抜き、
 1期とはいえ、全盛時の中原名人から名人を奪取しており、
 やはりとてつもなく強い天才なのです。

 私は、NHK将棋講座で加藤一二三九段の解説もよく聞きました。

 加藤一二三九段は当時も奇行で知られ、相当に変人であることで有名でしたが、
 将棋の解説は歯切れよく素人にとても解りやすいので、
 頭のいい人はやはり凄いなということが強く印象に残っています。

■当時の私■

 このころ私は、興味が映画の方に移り、
 小・中の頃ほど将棋への情熱はなかったのですが、
 相変わらず強かったので、高校のクラスメートの将棋部の部長から、
 将棋部の対外試合に助っ人で参加するよう言われて、
 時々他流試合を楽しんでいました。

 大学生になってからは、ほとんど将棋は指しませんでしたが、
 ちょっと自慢してよいかもしれないことを含めて思い出があります。。

●東京理科大将棋部の対局で勝ってしまったこと
 
 私は実は1年間だけ東京理科大学に在籍していたことがあり、
 入学した年に将棋部でも入るかと思い、おためし対局をしてみたのです。

 そのとき、将棋部の先輩が1局手合わせしてやるとのことで、
 久々に将棋を指すことになりました。

 ところが、その将棋、私が勝ってしまったのです。

 私はその頃何も知らなかったのですが、東京理科大学将棋部といえば、
 当時から今に至るも、大学将棋界では名だたる強豪で、
 上級生部員が新入りの1年生に負けることなどあってはならないことだったのです。

 私が勝ったとき、将棋部内が騒然していたような記憶が今も残っています。

 結局、将棋部に入らず勝ち逃げしてしまいましたが、
 当時の先輩方、申し訳ありませんでした。

●卒論を書いた研究室の助教授に勝ってしまったこと

 広島大学で卒論を書いた研究室の夏合宿で、
 卒論の指導を受けた助教授と将棋を指しました。

 勝つつもりはなく、、助教授への攻撃を一切控えて守りに徹したのですが、
 助教授も攻めてこず、
 そのうちに、助教授は失着で自爆してしまい連敗してしまったのです。

 当然のことながら助教授は機嫌が悪くなり、
 研究室の先輩からひやかされ、とてもバツが悪かったことが懐かしい。

《1980〜1990年代:
 中原名人・谷川名人・羽生名人三つ巴の時代》

 谷川名人(当時八段)は、中原名人と死闘を繰り広げ、
 谷川時代が来るかに見えたのですが、
 当時六段くらいであった羽生名人(十九世)が台頭して、さらに、
 羽生世代(佐藤康光九段森内俊之名人(十八世)等)が怒涛の如く押し寄せた結果、
 谷川名人は押し流されずにいるのがやっとということになってしまいました。

 米長九段は、長年のライバルであった中原名人から最後に名人位を奪取し、
 中原時代に引導を渡したと同時に、翌年に羽生名人に名人位を奪取され、
 その後の羽生時代の幕開けをつくったという、
 いわば現在に通じる時代を創った偉大な天才です。

■当時の私■
 
 当時、私は企業勤めをしていてほとんど将棋を指すことはなかったのですが、
 宇都宮在住時のある年の正月、デパートで開催された将棋まつりを見に行きました。

 公開対局が中原名人vs米長九段で、
 解説が谷川名人(当時九段)と林葉直子女流五段という超豪華な顔ぶれでした。

 公開対局は、多くの将棋ファンが囲む会場に設営されたひな壇上で、
 盤を挟んで和服姿の中原名人と米長九段が対峙しており、
 水を打ったような静謐の中、背筋を伸ばした両雄が、
 気迫のこもった駒を打ち付ける音だけが響いていました。

 この荘厳で神々しい光景は今も忘れられません。

 しかも、見守るファン(あの懐かしい将棋おじさん達が多数)は、
 米長九段が中原名人からどうしても名人位を奪取できず、
 諦観すら漂う当時の米長九段の心中をよく承知しており、
 ほとんどのファンが米長九段の勝利を期待していたと思います。
 
 しかし、ファンが手に汗を握り固唾をのんで見守る中、
 米長九段は、彼らしい奇手を連発したにも拘らず負けてしまいました。

 勝負とは非情なものです。

 しかし、米長九段は、台頭する羽生世代を前にしてそこから一大奮起、
 この公開対局の翌年に、中原名人から念願の名人位を奪取して、
 棋界の頂点に立ったのでした。

 ******

 林葉直子さんは、中学生のときに、
 それはそれは清楚な美少女棋士としてデビューして、
 タイトルも数多く取り、女流棋界を牽引するスター棋士で、
 公開対局での美しいお姿に見とれてしまいました。

 その後、まさかの中原名人とのスキャンダルがショッキングでしたが、
 関係者はドロドロであったと思いますが、地味な将棋界にとっては、
 棋界を代表する大名人と美少女棋士の恋という、描きようによっては、
 映画の題材になるような華のある話題であったと思います。

 このスキャンダルは、お二人のキャリアを損なうものではなく
 恥じることではないと私は思っています。
 
《2000年代:羽生名人の時代から藤井七段まで》 
 
 この間は、私も会社勤めから特許事務所勤めに転職し、
 さらに自前の特許事務所を開設するという激動の日々を送っており、
 将棋を指すことはほとんどなくなりましたが、
 1つだけエピソードがあります。

 ******

 東京の特許事務所に勤めていた頃、
 結構シビアな状況が続いて気が滅入った時期がありました。

 気分転換と思い、秋の連休に、
 自宅から近い早稲田大学付属高校・中学の学園祭を観に行きました。

 ざわつく校内を歩いていたら、中学の将棋部の展示教室が目に留まり、
 あまりの懐かしさにふらりと入って、将棋部員と1局指しました。

 相手は学生将棋の強豪である早稲田大学の付属中学の将棋部員。

 こちらは将棋の駒を握るのも10年ぶりで、手元がおぼつかないロートル。

 勝負は見えていたかのようでしたが、何と、私が勝ってしまったのです。

 翌年の学園祭にも立ち寄って、また将棋部員と1局指しました。
 
 その時は、相手の部員の周りで、他の部員が、
 「あのおじさん結構強いぞ」とひそひそ話をしていたのが聞こえ、
 将棋部内では有名人であったようで面白かった記憶があります。

 そして、そのときも私が勝ってしまいました。
 
 私はこの2年間のたった2局の対局に心が癒され、
 仕事の転機を乗り切れたかなと思っています。

 早稲田中学の将棋部には心から感謝いたします
 (でも、早稲田大学付属中学の将棋部としてはもっと鍛錬しないとね)。


■最近の私■

 昨年(2017年)、
 わが将棋人生を共に過ごしたライバルの友の訃報が届き、
 これ以上悲しいことはありませんでした。

 彼とは、10年ほど前までは2年に1度ほど会う時があり、
 会えば「1局指すか」となり、
 彼の大学教員としての近況とか、私の会社での近況を話すこともなく、
 黙々と半日ほど指し続け、家で一緒に酒食することがあっても、
 外に飲みに行くことはついにありませんでした。

 純粋に将棋を指すひと時を楽しむことができた、かけがえのない友であり、
 『泣き虫しょったんの奇跡』を観ている間、
 彼との貴重な時間をもう持つことができないという喪失感を、
 改めて思い起こしまい、涙が次から次から溢れ出て困ってしまいました。
posted by Dausuke SHIBA at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2017年10月15日

ロス・プリモスと東京ロマンチカ

 先日(2017年10月5日)、
 「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」(以下「東京ロマンチカ」)
 のメインボーカルの三條正人さんが亡くなりましたね。

 もう8年前になる2009年に、東京ロマンチカの少し先輩になる
 「黒沢明とロス・プリモス」(以下「ロス・プリモス」)
 のメインボーカルの森聖二さんが亡くなっています。

《たそがれの銀座》

 私が生まれた頃から始まったと言われている高度経済成長時代が、
 東京オリンピックと新幹線開通した1964年を経て、
 ピークが続いていた1968年に、
 TVと近所の武蔵小山商店街のスピーカーから流れてきたのが、
 ロス・プリモスの『たそがれの銀座』でした。

 私は中学生でしたが、一回聴いて耳にこびりつき、
 今に至るもとても好きな曲となりました。

 『たそがれの銀座』は、
 地方から出て東京での生活と仕事に慣れてきたであろう、
 おそらく水商売で生計を立てている若い男が、
 銀座の華やかな風俗の中で恋と酒を知り、一丁前になるまでを、
 ボサノバが入った軽やかなメロディにのせて、
 銀座1丁目から8丁目までの数え唄にしている名曲です。

 『たそがれの銀座』がヒットしたのは、
 国内の道路舗装が隅々までいきわたり、
 雨の日にも、会社の帰りの男と女が、
 東京・横浜の繁華街に立ち寄って帰宅するまでに
 長靴を履かないで済むようになっていた時代といってよいでしょう。

 『たそがれの銀座』の少し前の
 『ラブユー東京』が大ヒットした1967年頃から、
 華やかな都会の中で楽しむ中産階級の若い男と女を主人公にした歌が
 様になってきたように思います
 (例えば『ブルーライトヨコハマ』(1968年)もその代表曲でしょう)。

 ちなみに、
 マクドナルドの第1号店が銀座にできたのが3年後の1971年です。

 『たそがれの銀座』の6年前に映画と歌でヒットした
 『銀座の恋の物語』(1962年)は、
 銀座のアパート(があったんですね)に住む若い男(石原裕次郎)と、
 戦争のトラウマが残る若い女(浅丘ルリ子)のラブストーリーで、
 まだまだ、高度経済成長下での地方から出てきた男女の物語
 とはいえなかったように思います。

******

 『たそがれの銀座』は、今聴いてもオシャレですが、
 当時、私が聞いたときには、ちょっとだけ時代がズレていた感じがしました。

 『たそがれの銀座』の第1番に、
  ♪ 一丁目の蛯ェ ためいきついて
  ♪ 二丁目の蛯ェ ささやいた

  第4番に、
  ♪ 数寄屋橋は きえても
  ♪ 銀座はのこる
  ♪ 柳とともに いつまでも

 とあるのですが、『たそがれの銀座』がヒットするほんの少し前に、
 銀座の蛯ヘ伐採されてしまっていたのでした。

 また、『たそがれの銀座』の第3番に、
  ♪ 三丁目のフユ子は 小唄が上手
  ♪ 四丁目のナツ子は ジャズが好き

 とあるのですが、いくらあの頃でも、
 小唄が上手な銀座の女は相当に古風で、私などイメージできなかったものです。

 作詞家の古木花江さん(星野哲郎又はその夫人といわれているようです)が、
 星野哲郎さんであれば、当代超一流の作詞家で、
 お若い頃は、当然に歌詞通り、日常を銀座で活躍されたでしょうから、
 柳に思い入れがあるのも当然で、小唄が上手な小粋な女もいたでしょうし、
 当時としても、『たそがれの銀座』の第4番にある
  ♪ 七丁目の酒場で おぼえたお酒
  ♪ 八丁目のクラブで 知った恋

 のようなことは、地方出の若い男にはまずありえないことですが、
 星野哲郎さんの若い頃がモデルとあれば百%納得です。
 
《ロス・プリモス》

 『たそがれの銀座』を歌っていたロス・プリモスは、
 当時のサラリーマンのガキにすぎない私からみれば、
 どこから見てもおじさん達の集まりでしたが、
 テカテカのポマードヘアと黒いスーツで統一され、
 ピカピカのエナメル靴を履き揃えた、
 ダンスホールかキャバレーの舞台から抜け出たような、
 とても怪しく胡散臭い、
 玄人としか形容のしようがない大人の世界の人達でした
 (森聖二が当時29歳、今の私より遥か年下というのは信じ難い)。

 ロス・プリモスは、『たそがれの銀座』の少し前に、
 今でもカラオケの定番として有名な『ラブユー東京』を大ヒットさせており、
 私はこちらもとても好きですが、
 『ラブユー東京』が、地方出の若い女が、
 七色の虹がきらめく憧れの東京で恋に夢中になっている様を歌い込んでいて、
 田舎臭さが無きにしも非ずで乗り切れなかったところ、
 『たそがれの銀座』のモダンさの方がピッタリ嵌ったという感じです。

《東京ロマンチカ》

 『小樽のひとよ』(1967年)は、
 『たそがれの銀座』と同時期にヒットした東京ロマンチカの名曲ですが、、
 私がTVで初めて聴いたときは、
 こんなアナクロな歌がなんでヒットするのかと思ったものです。

  ♪ 逢いたい気持ちが ままならぬ
  ♪ 北国の街は つめたく遠い
 で始まる、ベタでくさい歌詞を、これまた、
 戦前の映画雑誌から抜け出たような白面の古典的二枚目である三條正人が、
 透き通った高音で歌うのですから、こういう歌はこの現代にありえねぇ〜
 と思ったのですが、なんと、

 『君は心の妻だから』が立て続けにヒットして、これがまた、
  ♪ 愛しながらも さだめに負けて
  ♪ 別れたけれど こころはひとつ
 とさらに輪をかけた、ベタベタのくさい歌詞を、
 三條正人が切々と歌うのですから、
 この現代には理解できないことが起こるものだと思ったものです。

 『小樽のひとよ』は、
 小樽から東京に出て水商売で仕事をする二枚目の若い男が、
 故郷に一人残した恋人を想う歌ですが、
 故郷で女を泣かすだけ泣かせ、東京でも女を泣かせ続けた挙句に、
 結局はやっぱり故郷の女を想うというこの若い男は、
 三條正人にイメージがピッタリ重なってしまいます。

 曲のイントロをクラシックギターで一見真面目そうに爪弾く鶴岡雅義は、
 裏で三條正人を操る怪しい黒幕のように見える一方で、
 全員が、真っ白なスーツと白のエナメル靴で揃え、
 ロス・プリモスと正反対の清潔ぶりなのですが、
 グループ名が「東京ロマンチカ」とテカテカの字面と響きで、
 ロス・プリモスよりもかえって怪しい胡散臭さが増幅したものです。

《森聖二さんと三條正人さん》


 森聖二さんの柔らかいが輪郭の明瞭な歌声は女唄によく合い、
 ロス・プリモスは女唄が多く、
 『たそがれの銀座』はめずらしく男唄であったように思います。

 女唄のときは、森聖二さんの歌だけ聴くと、
 わけありの水商売の女を彷彿とするしかなく、
 これを男が歌っていると思うと気色の悪さが漂いそうにも思いますが、
 全くそうなっておらず、どれも品のよい名曲ばかりです。

 三條正人さんの透き通った高音は、女を想う若い男に合っており、
 東京ロマンチカは男唄が多かったように思います。

 そして『小樽のひとよ』も『君は心の妻だから』も、
 聴いているうちに、ドラマの世界に引き込まれる迫力があり、
 特に、大人になって、
 たとえ女たらしであっても純愛はありうる、
 女性は三條正人さんがたとえ本当に悪い人であっても好きになることがある、
 などということを知るようになってからは、
 やはり名曲であったということを再認識しています。

 両グループの歌の品が落ちないのは、
 森聖二さんと三條正人さんの半端でない圧倒的な歌唱力がなせる技で、
 バックコーラスの安定感とリーダーの確かな演奏技巧が絶妙にサポートして、
 グループ歌唱として極めて完成度が高いことに裏付けられているためと思います。

 東京のイメージが強烈な森聖二さんが大阪出身、
 北国のイメージが強烈な三條正人さんが滋賀出身というのも、
 両者のイメージが如何に演出によって喚起されていたのかがよくわかります。

 そして、森聖二さんも三條正人さんも、
 60代を過ぎても歌唱力が衰えておらず、名曲の多くを、
 当初のままに歌い続けることができたというのは驚異的で、
 プロ中のプロというしかありません。

 森聖二さんが亡くなったときに、東京ロマンチカが追悼として、
 ロス・プリモスのヒット曲を歌唱したことは知っていましたが、
 三條正人さんの『ラブユー東京』は聞いてみたかったです。

 ロス・プリモスと東京ロマンチカには、
 歌謡曲の楽しさ、大人の世界、そしてプロの何たるかを教えていただいたこと、
 本当に感謝申し上げます。

******

 三條正人さんのような、放っておくと悪い女の餌食になりそうな二枚目には、
 しっかりと掴んで離さない年上の美女が守っていることが多いように思います。

 三條正人さんの場合も、独立騒動のときに干されたりして、
 苦難の芸能人生を歩んだようですが、
 私も好きであった美人女優の香山美子さんが人生を共にしてくれました。

 香山美子さんに捨てられずに最後まで看取ってもらったのは、
 とても幸せなことであったと思います。

 三條正人さんの葬儀に出られた香山美子さんの写真を久々に拝見して、
 相変わらずお美しいので安心した次第です。
posted by Dausuke SHIBA at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ

2016年04月11日

早稲田大学の入学式から桜満開の神田川へ

 春の夕方、早稲田駅からその先の神田川まで散歩してみました。

 早稲田駅から都電荒川線に乗って向原まで10分、
 向原駅で降りて歩くと当所池袋オフィスなので、
 当所新宿オフィスから夏目坂を下って早稲田大学を抜け、
 早稲田駅までのコースはもう何回も行き来しているのですが、
 この時期、神田川の方にでるのは初めてでした。
 
 大隈講堂の一歩手前の早大通りの花桃が満開でした。
 当所の前にある枯れ木のような花桃とは違います。
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 いつもいない交通整理員がものものしいと思ったら
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 本日は、早稲田大学の入学式でした。
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 大隈講堂前にある喫茶店「ユニカフェ125」
 (今回のブログを書く際に調べてみて初めて店名を知りました)。
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 神田川にかかる最寄りの橋に入ったら、両サイドを覆う満開の桜に遭遇しました。
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 桜の花びらが川沿いに流れていきます。
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 リバーサイドを歩いてみることにしました。
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 なかなかの絶景が続きます。
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 上の画像の川面の真ん中に泳いでいる鴨がいます(アップすると、このように)
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 川沿いの策に、早稲田川柳会の川柳が延々と貼ってありました。
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 そして「面影橋」に。何の変哲もない橋です。
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 名前の由来もきちんと説明されています。
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 早稲田駅から面影橋駅まで歩いて15分、
 今度は面影橋駅から早稲田駅まで都電で帰りました。
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 チンチンのドア開閉音を聴いての都電からの景色もおつです。
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 都電早稲田駅を後にして、家路につきました。
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2016年01月09日

神田明神に初詣(2016年1月7日)

 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 「柴さんも2年目だから、仕事の神様を祀っている神田明神に1度行ってみませんか」
と、旧友の照山社長に誘われて、ご一緒することになりました。

 御茶ノ水駅から神田古本屋街へは幾度も足を運びましたが、神田明神は行ったことがありませんでした。

 御茶ノ水駅の聖橋口で待合せて歩いて5分、こんなに近いところとは。

 甘酒屋など20件ほどの屋台を抜けると立派な門構えがあります。

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 門をくぐって出た参道のその先に拝殿が見えました。

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 三が日も過ぎた木曜日の1時半というのに、参道は参拝客の列で埋まっています。
 照山社長が「まずは周囲をみましょう」と拝殿と本殿の脇から裏への道を案内してくれました。

 ちょうど裏側に、「銭形平次の碑」があり、何となくありがたい気持ちになりました。

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 「銭形平次の碑」を見ると、亡くなった銭形平次が懐かしく思えるのですが、私の心の中で懐かしく思い出される銭形平次は、凛々しい大川橋蔵さんのちょんまげ姿でした。

 裏側をぐるりと歩いて参道に戻り、参拝客の列に並んで待つこと20分後に、拝殿でお参りすることができました。

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 参拝客はビジネススーツの方々が多く、仕事の神様であることを実感しました。

 照山社長と私も記念写真を撮っておきました。

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 昨年末に特許出願の番号が26万台に届いておらず、我が国の知財状況はまだまだ回復基調にありません。

 本年は上向いて欲しいものだと、照山社長と屋台で甘酒を呑みながら、しみじみとした新年の昼下がりを味わいました。

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タグ:神田明神
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2015年12月14日

私の散歩コースと「それぞれの漱石」

 夏目坂から早稲田大学にかけては私の散歩コースで、昨日(12/13)の午後も、ブログの記事でも書こうかと思い、大隈講堂の近くの喫茶店に散歩に出かけました。

 大隈講堂の入口をみたら「それぞれの漱石」という立看が目に入り、漱石関係の座談会でも聞けるかと思い「飛び込みで入れるか」と聞いたら「2階に上がってくれ」と言われ、有難いとに2階席に座ることができました(大隈講堂に2階があるとは知らず、これだけでも面白い体験でした)。

 最初は何の催しかわからなかったのですが、手渡されたパンフレットを見たら、新宿区主催、朝日新聞・紀伊国屋書店共催の漱石生誕150年の記念事業の一環ということでありました。

 私が席に着いたときは、ちょうど、全国の小中高生から募集した漱石作品の感想文と絵画の表彰式で、吉住新宿区長が、入賞者に賞状を渡しているところでした。
 吉住区長ご本人を見るのは初めてでしたが、背が高く、姿勢がよく、声がよく通るなかなかの男前でした。
 賞状を受け取る生徒たちも、こんな子が身内にいたら、と思うような賢そうな子ばかり。
 但し、20人余りの受賞者中、男の子はわずか二人で、漱石を読んで感想文を書くのは、男の子には難題かと、やや将来を憂えてしまいました。

 このあと、嵐山光三郎さん(懐かしい。ご健在だったのですね)の楽しい感想文の講評がありました。

 私も高校のときに、あのドキュメンタリータッチの異色作(ですが退屈極まる)「抗夫」を含めて夏目漱石はだいたい読んでいたので、好きでもあり大学受験で大変に役立ったのですが、それきり読んでおらず、嵐山光三郎さんが、「吾輩は猫である」のラストの部分で高校生がよくこんなところに着眼したと褒められたのを聞いて、何十年ぶりかでその場面が脳裏に蘇り、人間の記憶とは面白いものだと思いました(しかし、Wordはなんでかな漢字変換で「抗夫」が出ず「工夫」しかないのか???)

 私の知り合いのベテラン行政書士で漱石演劇団を主催する天辰先生が、今年は「こころ」に取り組まれており、この日も来ているに違いないと思い休憩時間に振り返ったら、案の定トイレに行かれるところをお見かけしご挨拶しました。

 第2部は、イッセー尾形の漱石文学をネタにしたオムニバスの独り芝居でした。
 オムニバスの最初の一篇が、おそらくはジュールベルヌの「地底旅行」をベースに、「抗夫」になって地底旅行の入口があるアイスランドから地底に潜るという、なんともシュールな落語調独り芝居でした。
 噂に聞いていたイッセー尾形の独り芝居を、こんなところで見ることができるとは思いもよらず、日曜日の昼下がり、何とも得をした気分になりました。

 天辰先生は、漱石演劇団で共に活動しているこれまた2枚目のプロパフォーマーの関井君と一緒で、帰りは、三人で、夏目坂の焼き鳥屋に直行し、そのまま忘年会となり楽しい時間を過ごさせていただきました。

 ここのところ、20代の若い方と話しをする機会がなかったのですが、この日は、関井君が教科書で習ったという田中角栄以降の現代史、関井君に影響を与えているゴジラ以降の現代サブカルチャー史など、生き証人として酔っ払いながらの与太話をさせていただきました。

 天辰先生のお孫さんのような世代で、ああ、こういう方が次の時代を担っていくのかと、私もいよいよお呼びでない世代になることを実感し、感慨深いものがあった年末の一日でありました。
タグ:夏目漱石
posted by Dausuke SHIBA at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ