2020年06月28日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その9)理科教育は愛と創意と工夫の精神を伝えるべきだ

 商品とサービスを顧客に提供する事業者は(大企業でも中小企業でも)、
 顧客の抱える課題を解決するための技術・システムを、
 知恵を振り絞り、創意と工夫と愛情を注いで開発し、
 常に愛情のこもった新しい商品・サービスを顧客に提供します。

 産業の意義とは、そのような事業者の事業活動の過程で、
 新たな技術・システムが生まれ(必要であれば知的財産権を取得して)、
 それらを組み込んだ新たな商品・サービスが普及して、
 その結果、国民と事業者の人生の豊かさが実現すると考える点にあります。

 翻って、政府のコロナ禍対策事業をみると、
 ●アベノマスク配布事業における、商品(マスク)及び顧客(国民)への、
  愛情の欠片もない単に「物」をばら撒くだけの
  (厚労省・経産省・総務省の官僚寄せ集めマスクチームの)事業者感覚、
 ●消毒液配布事業における、顧客ニーズを無視した、
  創意・工夫の欠片もない機械的作業感覚、
 ●持続化給付金事業における、ただひたすら委託を連鎖させて、
  国税から手数料を引き抜くという、
  何か新しいシステムを開発する知恵の欠片も見いだせない、
  自動引落感覚を見せつけられると、

 経産省が、実施事業(原発・クールジャパン・官製ファンド・コロナ禍対策事業・・・)の
 ほとんど全てで失敗する理由がよくわかり、
 経産省の事業に引き摺られる我が国の学術・技術・産業の水準が、
 絶望的なまでに低下してしまったことは必然と言わざるを得ません。

 持続化給付金事業では電通が話題になっていますが、
 ベネッセが話題になった民間による共通テスト問題で大混乱を招き、
 学術研究費を削り続けた文科省も、経産省と同罪です。

 ******

 アベノマスクは、布とゴムでできたマスクですが、
 布が合成繊維であったとしても、
 元を辿れば生物の堆積物(化石)が液化した石油を原料としているのですから、
 文科省の理科教育の理念からみれば「自然を愛する心情」に繋っており、
 その延長で「顧客(国民)・商品(マスク)を愛する心情」をもって、
 政府マスクチームの官僚達がアベノマスク配布事業に携われば、
 結果はまた違ったであろうし、
 学校関係者の戦前のままの思考停止もなかったのではないでしょうか。

 このような状況下で、経産省・文科省不要論が説得力をもつのも
 致し方ないように思います。

 理科教育は、教科間の縦割・縄張・蛸壺状態を解消し、
 合理的に暗記して理解して考えることができる教科体系の下で、
 児童・生徒に愛と創意と工夫の何たるかを追体験させて、
 児童・生徒が、
 日々ネット動画で見せつけられる政治家・官僚のようにならぬように
 育て上げるべきです。

■理科教育は愛と創意と工夫の精神を伝えるべきだ■

 村上先生の論文をきっかけに『理科教育』に理科ついて考えきましたが、
 教科として理科に直接関係しそうなことは(その1)〜(その6)で語り終え、
 前回の(その7)(その8)では番外編として、
 暗記を強いる教科体系は何とかならんのかと吠えてみました。
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』 
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その4)物理は数学で考えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その5)化学は実学に徹すべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その6)理科教育は『技術・家庭』を入口とすべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その7)番外編:徒に暗記を強いる教科体系は見直されるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その8)番外編:体育はルールをきちんと教えるべきだ

 今回は、締めくくりに、村上先生による、
 愛と創意と工夫に溢れた理科教育の素晴らしい教材であり、
 特許発明でもある、〈気体分子運動論〉可視化装置についてお話をします。

●村上先生が博士号を取得した研究テーマ●
 私が広島大学理学部の修士課程に在籍していたときに、
 村上先輩は博士課程に在籍していていろいろと面倒をみていただきました。

 村上先輩が当時取り組んでいたのは、
 水溶液内で、色素が生体高分子にどのように吸着し脱着するかを、
 反応速度論的に解析するという地味な研究でした。

 この研究は以下の流れの中で進められます:
 @過去の文献といくつかの実験結果に基づき、
  生体高分子に対する色素の吸脱着機構を説明しうる
  素反応の組合せ(モデル)を仮定する;
 A色素と生体高分子の水溶液系の電導度、吸光度、誘電率・・・等の
  時間変化(動的物性)を計測する;
 B上記@の中から、
  上記Aの動的物性を説明できる最適な素反応の組合せを選択する;
 C上記Bで選択した最適な素反応の組合せを用いて、
  各素反応における反応速度定数kを決定する。

 このような村上先生の研究アプローチが、教育の分野で、
 実に斬新な教材を生み出す原動力になったのです。

●〈気体分子運動論〉可視化装置●
 村上先生が広島大学で理学博士号を取得した後に、
 山口大学教育学部で、理学とは全く異なる教育分野で、
 大学教員の道を歩まれたことは、
 私が企業勤めしていた頃に耳にしていましたが、
 村上先生とは、年賀状のやり取りをした以外は、
 ほとんどお付き合いがありませんでした。

 ところが、私が弁理士になってから、ひょんなことで、
 広島県周辺の知財状況を調査する機会があり、
 そのときに、懐かしい村上先生の勤務する山口大学を訪問して、
 20年ぶりに村上先輩と再会を果たしたのでした。

 村上先生は(学生の頃から老け切ってということもあり)、
 学生の頃と全く変わらず、
 にやにやっとしながら、柴君に面白いものをみせてあげる、
 と言いながら、〈気体分子運動論〉可視化装置を見せてくれたのです。

 〈気体分子運動論〉可視化装置の外観は、
 たくさんのスーパーボールが入ったただの木製の箱なのですが、
 底の突起を激しく振動させると、箱内で、
 スーパーボールがぽんぽこ、ぽんぽこ弾け飛ぶという
 訳の分からない代物で「何だこれは!?」というのが私の第一印象でした。

 ******

 風船に詰められた気体の圧力P・温度T・体積Vが、
 気体状態方程式(PV=nRT)
 (ボイルの法則とシャルルの法則の組合せ)に従うことはおなじみです。

 ここで、気体は、
 微小な剛体球とみなされる気体分子で構成されていると仮定し、
 気体の温度Tを、
 n個の剛体球の運動エネルギーの平均値として計算すると
 気体状態方程式(PV=nRT)が理論的に導かれます。

 従って、気体状態方程式に従う気体は、
 多数の微小な剛体粒子が空気中で運動している状態であると
 イメージしてよいことになります。

 このような考え方を『気体分子運動論』と呼びます。

 ******

 実際には、気体の分子など誰も目で見た人はいないわけで、
 このようなあたかも見てきたような話を聞かされても、
 高校生が初めて聞いたときはなかなかピンときません。

 そこで、村上先生は、
 微小な剛体球(分子)を、弾力性の高いスーパーボールに置き換え、
 n個のスーパーボールを、大きな箱の突起のついた底に置き、
 底の突起を激しく往復運動させて、
 スーパーボールを箱の中で弾き飛ばしながら、
 スーパーボールが当たる箱の側壁に仕掛けた感圧センサーで、
 スーパーボールが当たった壁の圧力Pを測定し、
 スーパーボールの平均運動エネルギーを気体の温度T、
 箱の体積を気体の体積Vとして、

 箱の底の往復運動を一定にして、
 Vを変化させてPとVの関係をプロットし、
 圧力Pを一定にして、
 Vを変化させてTとVの関係をプロットしてみたのです。

 そうすると、何と、
 P∝1/V(ボイルの法則)とV∝T(シャルルの法則)
 が成立するというのです。

 これらが成立すれば、気体状態方程式PV=nRTが成立し、
 気体定数Rが計算できることになります。

 即ち、村上先生は、
 目に見えない気体分子の運動と、
 箱の中のスーパーボールの運動とが全く等価であることを、
 目に見える形で証明してくれたわけです。

 ******

 最初にただの箱にしか見えなかったのですが、
 考え方と仕組みがわかった私には「Oh! My God!」でありました。

 これが箱の中身です(特許4552012号公報より)
気体分子運動論可視化モデル.jpg
 
 そして、村上先生が、
 〈気体分子運動論〉可視化装置を開発するにあたり行った、
 @気体分子運動論に基づくモデル(気体は微細剛体球の集合体)を仮定し、
 A上記@の仮定に基づけば、
  スーパーボール集合体も気体と同じ挙動をするはず、と考え、
  スーパーボールの集まりが示す物性(P、V、T)を測定し、
 B気体分子運動論に基づくモデルが、
  上記Aのスーパーボールの挙動を説明できることを示し、
 Cスーパーボール集合体の気体定数Rを求める、
 という一連の作業は、よく考えてみると、
 村上先生が学生の頃に行った研究アプローチと全く同じであり、
 三つ子の魂百までというか、自身の開発した手法に拘り続ける、
 一本筋の通ったぶれない学者魂(信念)に触れた思いでした。

●理科教育に愛と創意と工夫を●
 〈気体分子運動論〉可視化装置は、
 児童・生徒のために愛を込めて創意・工夫をした末に完成したものす。

 現状の理科教育では、ともすれば、上記@だけを授業すれば
 (授業内容を工夫するにしても@に留まる授業だけで)終わり、
 となりますが、〈気体分子運動論〉可視化装置は、
 上記Aの研究的思考を経由して、
 上記Bの技術・家庭の実技的要素を駆使して、
 研究における実験装置を自作して、研究的思考の検証を行うという、
 高度な研究プロセスを追体験できるだけでなく、
 実験装置を自作するという技術・家庭の創作的な面白さを伝え、
 温度・圧力という抽象的な熱力学的概念が、
 スーパーボールの弾け方を通して身体感覚で実感できる
 という点で、非常に優れた教材です。

 〈気体分子運動論〉可視化装置は、特許(特許4552012号)も取得しており
 物を作る創意・工夫を評価する知的財産権とどう関係しているかも、
 理科教育の過程で教えたり学んだりすることができるでしょう。

 〈気体分子運動論〉可視化装置を学術的に説明するとこのようになり↓
科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)研究成果報告書(H25-5-20)
 〈気体分子運動論〉可視化装置を特許的に説明するとこのようになります↓
特許4552012号公報
 これらをみると、学術と特許の観点の違いがわかり面白いと思います。

 〈気体分子運動論〉可視化装置を村上先生が生み出すことができたのは、
 理学研究から教育分野に転進したことで、
 現状の理科教育の縦割・縄張・蛸壺の教科体系に拘束されず、
 理学研究の自由な発想をストレートに教育に持ち込むことができた
 ためと思われます。

 これだけ面白い理科教材である〈気体分子運動論〉可視化装置は、
 残念ながら、中学・高校で普及しているという話が聞こえてきません。

 理科教育の関係者は、縦割・縄張・蛸壺活動をしていないで、
 〈気体分子運動論〉可視化装置の自由な発想を積極的に評価して、
 教材として取り入れて欲しいものです。

●おまけ●
 〈気体分子運動論〉可視化装置は、
 原子から高分子を含む分子が形成される過程の可視化装置としても機能します。

 この場合、原子は「手(原子価)の生えた質量の異なる微小な粒子」であるという、
 化学史の初期の原初的仮説に基づいて、以下のように装置を構成できます。
 
 1個のスーパーボールに磁石を1つ付けると、この磁石が原子価の役割をし、
 たくさんのスーパーボールが弾け飛ぶ中で、
 2個のスーパーボールが磁石で結合(原子と原子が結合して2原子分子を形成)
 するようになります。

 1個のスーパーボールに磁石を2つ付けると、
 たくさんのスーパーボールが弾け飛ぶ中で、
 スーパーボールが磁石を介して連鎖して結合して、
 長鎖のスーパーボール(原子が長く連鎖した高分子)を形成します。
ポリグリシンモデル.jpg
 (『科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)研究成果報告』より)

 スーパーボールに角度を変えてさらに複数の磁石を付けると、
 らせん状高分子やシート状オリゴマーなどの、
 複雑な生体高分子も形成できます。
高分子:らせん状高分子鎖.jpg
 らせん状高分子(『科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)研究成果報告』より)
高分子:シート状オリゴマー.jpg
 シート状オリゴマー(『科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)研究成果報告』より)

 これらの2原子分子や高分子鎖は、
 たくさんのスーパーボールが弾け飛ぶ中で、ある一瞬に形成され、
 他のスーパーボールの衝突で一瞬に崩壊したりしますが、
 スーパーボールの衝突が弱い、あるいは磁石の結合力が強い場合は、
 次第に安定に存在するようになります。

 地球の原始状態において、
 原子から分子が(さらに高分子が)形成され生命の誕生に至る、
 その最初の瞬間を見ることができたような感覚になります。
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2020年06月20日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その8)番外編:体育ではルールをきちんと教えるべきだ

 21世紀も板についてきた筈の今日この頃に、
 教育界は戦前のまま思考停止しているのではないか、
 というような出来事が起きています。
 ●『埼玉の公立中学校で「アベノマスク着用」とプリントを配り、
   批判の声 市教委は「遺憾」

 ●『【対談】アベノマスク着用強制について
   (3)原口一博衆議院議員 山井和則衆議院議員

 ●『200616 子供たちを動員して「感謝の拍手」

 埼玉県は、東京都のベッドタウンで、
 『八つ墓村』ほどの時間が止まった田舎ではないと思うのですが。
 
 校長先生を含めて、皆さん、私よりも年下で、
 戦後教育をたっぷりと受けている筈ですが、
 やはり戦後教育は間違っていたと考えた方がよいようです。

******

 村上先生の論文をきっかけに『理科教育』に理科ついて考えきましたが、
 教科として理科に直接関係しそうなことは(その1)〜(その6)で語り終え、
 前回の(その7)では番外編として、暗記を強いる教科体系は何とかならんのか
 と吠えてみました。
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』 
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その4)物理は数学で考えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その5)化学は実学に徹すべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その6)理科教育は『技術・家庭』を入口とすべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その7)番外編:徒に暗記を強いる教科体系は見直されるべきだ

 今回も番外編で、世界史と体育について勝手なことを書き散らしてみます。

■世界史の読み方■
●世界史と日本史の追体験●
 私は、中学・高校の世界史・日本史が全く暗記できず、
 予備校で、ベトナム史まで覚えなければならないことにショックを受け、
 結局、世界史・日本史を選択する必要がなかった広島大学を受験しました。

 かといって、それきり世界史・日本史と無縁だったというわけではなく、
 社会人になってからですが、今から20年近く前に、
 当時、各出版社が競って出していた世界史・日本史の全集を読みました。

 世界史は、当時既に文庫本だった河出書房新社版『世界の歴史』全24巻
 日本史は、もう図書館でしか読めない集英社版『日本の歴史』全21巻/別巻1

 河出書房新社版『世界の歴史』は初版が1979年頃、文庫入りが1989年、
 集英社版『日本の歴史』は初版が1991年です。

 社会人になって、世界史・日本史を題材にした
 小説・ドラマ・映画をふんだんに読んだり見たりしていて、
 典型的には、
 小説では『三銃士』、『三国志』、ドラマではNHK大河時代劇
 映画では『クレオパトラ』『ワーテルロー』などで、
 飛び飛びのある地域・期間のことだけ詳細に知っていたので、
 上記の世界史・日本史を読んだときは、頭の中の点が繋がって、
 世界・日本と自分がようやく地続きになった気分でした。

 そして、何と言っても、暗記することに迫られずに、
 歴史の流れに身を委ねて人類の営みを追体験することは
 生まれて初めての快感でもありました。

●中国通史から読み始める●
 河出書房新社版『世界の歴史』全24巻は、
 第1巻は、全地域共通ということで最初に読みましたが、
 残りの巻は、巻の番号順ではなく、国・地域の通史になるように、
 そして、中国の通史から以下の順で読みました:

(1)第1巻:人類の誕生    (今西錦司)
(2)第3巻:中国のあけぼの  (貝塚茂樹・他)
(3)第7巻:大唐帝国     (宮崎市定)
(4)第11巻:アジアの征服王朝 (愛岩松男)
(5)第14巻:明と清      (三田村泰助)

 ここまで読んで、今度は地中海沿岸地域の通史に転進しました。

(6)第2巻:古代オリエント  (岸本通夫・他)
(7)第4巻:ギリシャ     (村田数之亮)
(8)第5巻:ローマ帝国とキリスト教(弓削 達)
(9)第9巻:ヨーロッパ中世  (鯖田豊之)
(10)第12巻:ルネサンス    (会田雄次)
(11)第13巻:絶対君主の時代  (今井 宏)
(12)第15巻:フランス革命   (河野健二・他)
(13)第16巻:ヨーロッパの栄光 (岩間 徹)
(14)第22巻:ロシア革命    (松田道雄)

 次にインド・イスラムの通史に転進しました。

(15)第6巻:古代インド    (佐藤圭四郎)
(16)第8巻:イスラム世界   (前嶋信次)
(17)第19巻:インドと中近東  (岩村 忍・他)

 ここで、辺境地域史に入ります。

(18)第10巻:西域       (羽田 明・他)
(19)第18巻:東南アジア    (河部利夫)
(20)第17巻:アメリカ大陸の明暗(今津 晃)

 そして近・現代世界史として各国・地域史が合流します。

(21)第20巻:中国の近代    (市古宙三)
(22)第21巻:帝国主義の開幕  (中山治一)
(23)第23巻:第二次世界大戦  (上山春平・他)
(24)第24巻:戦後の世界    (桑原武夫・他)

 以上から、
 近代前の中国と地中海沿岸地域の通史は同程度の期間ですが、
 中国(5冊)の方が地中海沿岸地域(9冊)よりも内容が少ない
 ことがわかります。

 これは、中国の通史では、地中海沿岸地域の通史よりも、
 登場国・地域の関係がシンプルで、
 帝国の興亡の因果関係がほとんど同じであるためです
 (読んでるとよくわかります)。

 従って、中国史を通読すると、暗記することを意識しなくても、
 記憶に残り易いということになります。

 私が、前回のブログで、世界史は、中国史をまず学習して、
 中国史を世界史の地域的・時間的座標軸にして、
 他の国・地域史を学習すると、暗記の負荷が大きく軽減する
 と主張しましたが、上記がその根拠であり実践結果です。

 ******

 河出書房新社版『世界の歴史』は、著者として、歴史専門の学者だけでなく、
 第1巻が京大霊長類研(河合雅雄さん)、京大理学部系の研究者、
 第22巻が医師(松田道雄さん)、第24巻が仏文学者(桑原武夫さん)
 第23巻が哲学者(上春平さん)など、当時の著名文化人が参加しており、
 教科書的な歴史の記述と異なる、とてもユニークな世界史になっています。
 
●日本史を読んだ感想●
 集英社版『日本の歴史』は、たまたま書店にあったものを買ったのですが、
 日本史は元々が通史なので、
 当初はどれを読んでも大差ないかと思っていました。

 しかし、集英社版『日本の歴史』は、中世・近代になるに従って、
 いわゆる左翼史観が強くなるのがよくわかりました。

 左翼史観とは、政治的支配層中心の視点ではなく、
 百姓のような庶民階級が歴史の原動力であるという視点を重視します。

 当時(1990年代)は、
 左翼史観がNHK大河時代劇にも反映されだした時代のように思います。

 しかし、左翼史観の歴史の何が残念かと言えば、面白くない、
 ということに尽きます。

 例えば、戦国時代は武将の時代で、
 最後の東西対決で雌雄が決し、徳川家康が天下統一するまでの、
 ダイナミックな日本全体の動きが面白いのですが、
 集英社版『日本の歴史』は、百姓・町民の頑張りの記載が多く、
 今一つ乗り切れませんでした。

 日本映画で、日本の百姓を最もリアルに描いたのは黒澤明監督の『七人の侍
 と言われていますが、評論家の佐藤忠男さんが、百姓の
 「卑屈さ、貧相さ、へっぴり腰、臆病、無智、へつらい顔、だらしなさ
 (日本人が百姓を演じると、演じているように見えないほど嵌まる
  と言われるせいもあるのですが)
 があまりにリアルに描かれすぎて、率直に楽しめなかったのだが、
 それでも、この映画の面白さには抗しがたいものがあると言っています
 (『黒沢明の世界』第十章(佐藤忠雄、三一書房、1969年)。

 『七人の侍』の侍たちは、
 軍略家・武術家としてのプロの軍人的な要素だけでなく、
 教養・礼儀・規律・包容力ある人間としての魅力を備えており、
 これらが総合して魂を揺さぶるダイナミックな時代活劇を織りなすのですが、
 リアルな百姓には魂を揺さぶる面白さを見出しようがない、
 ということなのかもしれません。

 おそらく庶民階級に重きを置く左翼史観も同様で、
 左翼史観では、日本史を面白く描くことが難しいのかもしれません。

■体育はルールをきちんと教えるべきだ■
 私が中学・高校の頃は、体育の授業は、
 体操着に着替えてグランドに出ると、体育の教師が、
 「今日は、野球をやるぞ〜」
 「今日は、サッカーをやるぞ〜」
 「今日は、ハンドボールをやるぞ〜」
 とか言って、クラスをチームに分けて試合を始めるのですが、
 きちんとルールを教えてもらった記憶がありません。

 私は、将棋・映画が好きなインドア派でしたので、
 卓球以外のスポーツには全く興味がなく、
 上記の野球・サッカー・ハンドボールなど集団スポーツのルールが
 いまだによくわかりません。

 例えば、サッカーで、敵方が蹴飛ばしたボールがライン外に出ると、
 味方はスローインできるのですが、
 味方の誰が、どこからスローインできるのかが、
 どういう理屈で決まっているのかについて、私はいまだに知りません。

 ******

 ルールをよく知っているクラスメートにくっついて、
 何となく45分が経過して体育実技の時間は終わり、
 特段問題が生じるわけではないのですが、
 困った問題が起きるのは中間・期末試験においてです。

 中間・期末試験では保健体育もペーパー試験がなされ、
 各スポーツのルールを知らないと解けない問題が出たりするのです。

 中間・期末試験は、当然に、英国数理社を中心に勉強し、
 保健体育などは一夜漬けの最後の2時間程度しか勉強しないので、
 各スポーツのルールなど全く頭に入りません。

 体育の授業で実技ばかりしていないで、
 実技するスポーツのルールを座学で授業して、
 中間・期末試験で生徒に保健体育に時間を費やさせるべきではありません。

 スポーツのルールは、そのスポーツの歴史とも密接に関係するので、
 スポーツのルールを学習することは、
 スポーツの歴史を学習することに等しいともいえ、
 私のようなインドア派には、そちらの方が興味がもてるというものです。

 ******

 社会は法的ルールに則って運用されるべきで、
 その典型でありモデルとなるのが、ルールに従ってスポーツすることだ、
 ということはよく言われますが、教育の現場が、
 スポーツのルールをきちんと教えずに実技中心の授業をすることは、
 上記のスポーツの意義を生徒に全く教える気がないということにもなります。

 冒頭に紹介した、戦前のまま思考停止しているような教育の現場の在り方と
 相通じているように思えます。
posted by Dausuke SHIBA at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年06月14日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その7)番外編:徒に暗記を強いる教科体系は見直されるべきだ

 国会では、「「募る」であって「募集」ではない」などという議論を
 平気でなさる立法府の長がいるのを観ますと、
 やはり、戦後教育は全面的に見直さなければ、我が国は滅びると思います。

******

 村上先生の論文をきっかけに『理科教育』について考えきましたが、
 一応、教科として理科に直接関係しそうなことは語り終えました。
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』 
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その4)物理は数学で考えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その5)化学は実学に徹すべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その6)理科教育は『技術・家庭』を入口とすべきだ

 ずいぶんと長期にわたり語っていた間に、
 事務所のガリレオ温度計のガラス球は1個を残して全て沈み、
 暑い季節に突入したことを改めて実感します。
KIMG0109.JPG

 今回は、理科教育に限らず、初中等教育において避けて通れない
 暗記について考えて見ます。

●徒に暗記を強いる教科体系は見直されるべきだ●
 かくいう私は暗記が全くできず、理科・社会科を習うに際して苦労しました。

 社会科に至っては、
 義務教育として学ぶ権利を放棄させられたような思いがします。

 その代わり、
 暗記する必要がない現代国語、公式の導出法だけ覚えた数学、
 理科・社会の中でも、
 暗記が最小限で済む物理と政経はそれほど苦になりませんでした
 (政経は憲法を暗記すれば制度を論理的に理解すれば足ります)。

 しかし、大学入試では私が苦にならない学科で受験できるところは限られ、
 探しに探して広島大学を受験したというのが実情です。

 ちなみに、当時、広島大学理学部は、
 現国・数学・物理・化学・政経・英語で受験できたのです。

 私の場合、その後すぐに導入されたセンター試験制度では、
 合格は無理だったと思います。

 ******

 それから数十年後に弁理士試験を受けたわけですが、
 司法試験受験者には笑われると思いますが、
 知的財産制度の中核の特許・実用新案・意匠・商標・著作権の
 わずか5法域について、まずは頭に詰め込むのに苦労しました。

 しかし、知的財産制度は非常に論理的で、
 規則的に暗記できる側面が強く、一度覚えてしまえば、
 あとは論理を駆使することが本質なので、私には合っていたと思います。

 特許法は、重要な特許要件が、発明該当性・新規性・進歩性の3つで、
 特に暗記する必要もなく、専ら手続要件を暗記すればよかったのです
 (特許要件と手続要件を組み合わせた論文筆記試験自体は難しいですが)。

 商標法は、暗記しなければならない登録要件が20前後あり、
 しかも、これらの要件の間に脈絡がなく個別に覚えなければならず、
 苦労しました(トイレに貼って覚えたものです)。

●無駄な暗記を強いる不合理な教育体系●
 前回までの考察を振り返ると、理科の教科体系は、
 数学・物理・化学・生物・地学・技術・家庭が、
 相互に参照しあう関係を遮断して個別独立しているので、
 論理の筋道が切れて論理的な「理解」が妨げられて、
 生徒に無駄に暗記することを強いています。

 これは、日本史・世界史・地理・政経・倫社の間でも同様で、
 特に、ほぼ全頁の暗記を強いられるとしか思えなかった、
 日本史・世界史・地理の教育体系は縦割・縄張・蛸壺ぶりは異常であり、
 このような異常な教科体系を放置する教育関係者の罪は大きい。

●世界史は中国史を座標軸にすべきだ●
 おそらくは教育の現代化のような趣旨と思いますが、
 公教育では、世界史は各国通史の体系になっておらず、
 同時代の全世界の状況を並行して学習する体系になっています。

 何故、このような残酷な体系を生徒に強いるのでしょうか。

 世界を横断的に俯瞰しなければ理解できないようになるのは、
 近代以降の現代史の話であって、それまでは、日本も含めて、
 各国・地域の歴史はそれぞれの中でほぼほぼ完結しているので、
 その個別の国・地域の歴史の流れに沿って通史を学習すれば、
 因果関係を理解しながら、最小限の暗記だけで、
 その国・地域の歴史は理解できる筈です。

 それを、数千年を100年毎くらいの期間に区分して、
 その期間の間の各国の状況をばらばらに教えるので、
 その期間の各国・地域の状況について、
 通史の流れの中での因果関係が理解できなくなり、
 その結果、その期間の各国・地域の状況をひたすら覚え、
 次の期間についても同様にひたすら覚えるしかないということになります。

 ちなみに、歴史教科書で定評のある山川出版の「詳説世界史-B」
 の目次を以下に引用しました。
20200614山川出版世界史-01.jpg

20200614山川出版世界史-02.jpg

20200614山川出版世界史-03.jpg

20200614山川出版世界史-04.jpg

20200614山川出版世界史-05.jpg

 例えば、「第1章 オリエントと地中海世界」は「ローマ世界」で終わですが、
 その続きは「第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展」で、
 その間にインド・内陸アジア・イスラムの古代史が入るので、
 第1章のことなど完全に忘れてしまい、第5章は何の続きだったのか?
 ということになってしまいます。

 また、中国史も、
 「第2章 アジア・アメリカの古代文明」の「中国の古代文明」の続きが、
 「第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成」の「東アジア文化圏の形成」
 で、その間に、なんと南北アメリカ古代史や北方民族の話が入るので、
 中国通史としての因果関係が解らなくなってしまいます。

 ******

 中国は、世界最古の歴史発生地域であり、
 現代に至るまで、ほぼ同じ地域で一貫して文明が継続し、
 日本史と密接不可分に関係するのですから、
 世界史は、中国通史を入り口にすべきと思います。

 中国は、広大な中国大陸の北方、中原、南方の諸民族が、
 中原における覇権を巡り争い、漢民族をはじめとする幾多の民族が
 帝国の勃興・滅亡を繰り返しますが、他の地域の歴史に比べて、
 他の地域からの影響が相対的に少なく、
 勃興・滅亡の因果関係がどの帝国もそれほど大きく違わないので、
 帝国の名前を時代順に覚えれば、後は、
 帝国毎の政治・社会制度を理解しながら暗記をすることができます
 (従って、中国通史はそれほど時間を要しないのではないでしょうか)。

 こんな覚え方があるようです
 (中国王朝は歌(ゴロ)で暗記!10分で勉強は終わる! )
 
  殷、周、秦、漢、三国、晋 (もしもしかめよ、かめさんよ)
  南北朝、隋、唐、五大   (せかいのうちにおまえほど)
  宋、元、明、清、中華民国 (あゆみののろいものはない)
  中華人民共和国      (どうしてそんなにのろいのか)

 そして、何といっても、歴史に題材をとった、娯楽作品としての
 秦の始皇帝の物語『項羽と劉邦』、三国時代の英雄談『三国志』
 を代表とする、とてつもなく面白い小説・ドラマ・漫画が多くあり、
 生きた歴史を疑似体験できるというのが中国通史の強みです。

 小説では、司馬遼太郎『項羽と劉邦』、柴田錬三郎『三国志 雄ここにあり
 ドラマでは、中国ドラマ『項羽と劉邦』、『三国志』、
 漫画では、横山光輝『項羽と劉邦』、『三国志』等があり、
 春休みにでも徹夜して読んだり見たりしたらよいと思うのです。

 ******

 重要なことは、古代から近代の前の世界史の時間的・空間的座標軸として、
 中国史が頭に入っていれば、他の国の通史も、
 同時代の中国の動向を参照して理解しながら暗記ができるということです。

 我が国は、欧米・インドに比べれば、
 極めて長期にわたり中国の影響を受け続けているのですから、
 世界史の方で中国史がきっちり頭に入っていれば、
 日本史の中国と関係する部分の理解・暗記負担が相当に軽減できる筈です。

●「日本現代史」と「地理」は「世界現代史」に統合すべきだ●
 世界史も、さすがに近代以降は、各国通史に拘る意味がなく、
 グローバルな関係性を理解せざるをえません。

 そうであれば、日本史の近代以降も世界史の近代史に統合して、
 よく言われる、日本史の授業が現代史の前で終わってしまう、
 という状況を解消する必要があります。
 
 また、地理は、各国の歴史(地政学)と密接に関係しますから、
 世界史の各国通史では各国地理も必然的に学習することになり、
 さらに、世界現代史は、
 グローバルな資源の分布、産業・文化交流と密接不可分ですから、
 地理の大部分は世界現代史に統合できてしまう筈です。

 さらに、政経・倫社の基礎となる近代合理思想も、
 その萌芽は、世界現代史の中で語られるべきなので、
 その部分は世界現代史に統合しておけば、
 政経・倫社の歴史部分の理解・暗記負担は減る筈であり、
 政経・倫社では、負担が軽くなった分、
 憲法をしっかり理解するため、行政法や民法レベルの法教育も行うべきです。

 そして、「「募る」であって「募集」ではない」「私は立法府の長」
 などと、国会で総理大臣が義務教育レベル以下の議論をしてしまう、
 我が国の恐るべき状況の、教育の視点からの解消を目指すべきです。

●無駄な暗記を強いる不合理な教育体系の最大の弊害●
 上記した無駄な暗記を強いる不合理な教育体系で、
 最も有利な立場にたつのが、東大頭の方々です。

 東大頭とは、いくらでも暗記することができるが、
 その代わりにロジカルな思考がほとんどできない頭の構造をいい、
 官僚・法曹・士業にも多くいらっしゃいます。

 このような方々は、我が国にとって不要というわでではないのですが、
 このような方々ばかりですと、
 連日報道される行政機関の無責任な状況に行き着いてしまいます。

 教育関係者の皆様には、国会で未来の総理大臣が
 「「募る」であって「募集」ではない」「私は立法府の長」
 などと聞いてる方が恥ずかしくなるような議論をしないように、
 未来の官僚が責任をもって政策を運用するようにするために、
 徒に暗記を強いる不合理な教科体系は、
 我が国が滅びかねない深刻な問題であると強く認識して、
 合理的な教科体系に改善する努力をして欲しいと思います。
posted by Dausuke SHIBA at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年06月13日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その6)理科教育は『技術・家庭』を入口とすべきだ

 5月31日に、私のところに特別定額給付金申請書が届きました。

 申請方法は、郵送、又は、
 マイナンバーカードを使用してのオンライン申請が可能とされています。
20200613特別低額給付金.jpg

 提出書類は、
 @上記項目を手書きした申請書;
 A健康保険証か運転免許証のコピー
 B預金通帳の口座情報記載頁のコピー
 だけで、これらを返送用封筒に入れてポストに投函すればよく、
 20分もあれば終わりです。

 @の申請書には、以下の項目を記入するだけです。
 ●所帯主の指名(自著) ●電話番号 ●申請日
 ●口座情報(口座名義・金融機関名・口座番号等)

 預金通帳を手元に置けば、5分程度の作業でしょう。

 この程度の作業をするのに、
 よくもマイナンバーカードを使用させようとしたものです。

******

 マイナンバーカード申請しようと考えた人の多くは、
 おそらく生まれて初めてマイナンバーカードを使用する人が多く、
 以下の作業をしなければなりません。
 A.マイナンバーカードの交付申請をしてマイナンバーカードを入手して、
 B.入手したマイナンバーカードを使用して特別定額給付金申請をする。

 しかし、A及びBの作業についての、
 総務省の所定のサイトの説明が非常に解り難く、
 説明を読んで一人で作業をすることは相当の苦痛を伴うでしょう。

 さらに、作業Aをした後、マイナンバーカードが届くのに1月を要し、
 それから、作業Bを四苦八苦してしなければなりません。、
 
 申請書が郵送されるのを待って20分で所定の書類をポストに投函する方が
 遥かに合理的です。

 なお、作業Aにおいて、マイナンバーカードを入手するには、
 所定の用紙を持参して所定の公的窓口に出向き、
 マイナンバーカードを手渡されるのですが、
 ここで驚くべきことを知ることになります。

 マイナンバーカードは、
 表面に個人番号が誰にも見えるようにむき出しに記載されており、
 窓口担当者には当然見えてしまいますし、
 万一落としてしまい、誰かに拾われた場合、
 拾った人に確実に個人番号が知られてしまいますので、
 セキュリティはないに等しいカードともいえます。
 
■理科教育は『技術・家庭』を入口とすべきだ■
 
 『理科教育』を弁理士が考えてみたシリーズでは、これまで、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文について、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)』では論文の内容を、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』では、
 論文の主テーマたる「自然を愛する心情を養う」ことを
 理科教育に組み込むことについて、私なりの考えをまとめ、
 教育の縦割・縄張・蛸壺の教育効果上の非効率について、
 算術・算数・数学・物理・化学を題材にして、経験論的に、
 個別に考察してきました。
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その4)物理は数学で考えるべきだ
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その5)化学は実学に徹すべきだ

 今回は、ここまでの考察を、
 「自然を愛する心情を養う」ことと結びつけることを試みてみます。

●生活の身近には自然はほとんど存在しない●
 私は、物心ついたときには、武蔵小山と戸越銀座に近い
 低級住宅街の真ん中で物に囲まれた環境で育っており、
 身近に自然らしい自然はなかったといえます
 
 悪ガキどもが集って遊んでいた草地や地面はあるにはあったのですが
 (『オバケのQ太郎』がまだそのようなお時代でしたね)、
 わずかに残された草地や地面はあっという間に舗装され、
 木造住宅がモルタル住宅に代わり、
 都電が廃止されて車が溢れかえるようになり・・・。

 ということで、『オバケのQ太郎』世代の私でさえ、
 そのような有様ですから、都市生活をする多くの子供たちは、
 身近に自然を見ることなど考えようもなく、
 子供たちの周囲は物と情報で充満しているというべきです。

 しかし、物と情報は、その由来を手繰っていけば、
 自然を加工したものであると言えますから、
 『理科教育』は子供たちの身の回りにある物と情報を入り口にして、
 遡った先に自然を見るという方向に進めた方が合理的であると思います。

 村上先生の論文に書かれているように、水を題材とした教育が、
 小学校から大学に至るまで広く行われているにも拘わらず、
 「自然を愛する心情を養う」ことと結びつかないのは、
 水という自然物が、実際には子供の身の回りに見える形で存在していな
 (蛇口から出てくる「水」は自然物という感じではないですよね)
 こととも関係するのではないかと思うわけです。
 
●物と情報を入り口とする教育の意義●
 一方で、現状の『理科教育』は、伝統的に、
 数学・物理・化学・生物・地学に分かれて縦割・縄張・蛸壺化しており、
 それぞれの分野の入口があまりに抽象的で、
 身近にあふれる物と情報とどう結びつくかが最後になり、
 そこからさらに「自然を愛する心情を養う」ところまで行く前に、
 生徒はウンザリして理科離れが進むという悪循環に陥るように思います。

 ところで、昔から現代にいたる中等教育の中に、
 『技術・家庭』という不思議な教科があるのですが、
 作業着を着て木工・機械・電気作業をする町工場のおじさん風の先生と、
 割烹着を着て料理や裁縫をするおばちゃま先生に指導されて、
 作業場のような教室と料理学校のような教室で、
 男子生徒・女子生徒が別々だったり一緒だったりして、
 何となくある時間が過ぎていったことだけが記憶に残る、
 本当に不思議な教科であると思います。

 考えてみれば、この『技術・家庭』』こそが、唯一、
 身近にあふれる物と情報そのものを入り口とする教科であると思うのです。

 私の手元に、何故か子供が使った『技術・家庭』の教科書
 (開隆堂『技術・家庭』上下、平成8年12月発行)があり、
 その学習項目は以下のようになっています。

 〔技術〕右向き三角1木材加工右向き三角1金属加工右向き三角1機械と熱エネルギーの利用 
     右向き三角1電気とエネルギー右向き三角1情報基礎
 〔家庭〕右向き三角1食物右向き三角1栽培右向き三角1調理右向き三角1被服右向き三角1住居右向き三角1保育
     右向き三角1消費者教育      

 ちなみに、実際の教科書は〔技術〕〔家庭〕に分かれておらず、
 各項目が入り乱れており、教科書の目次の部分を引用すると、
 以下のようになっています。
20200613技術・家庭上巻.jpg

20200613技術・家庭下巻.jpg

  『技術・家庭』は〔技術〕と〔家庭〕にはっきり分かれており、
  それぞれ繋がりの深い項目をまとめて授業した方が、
  生徒も理解や暗記がしやすい筈ですが、
  世界史で各地域の歴史を、
  時代ごとに地域をバラバラにして教えるのと同様に、
  なぜ、関連なくバラバラにして教えるのか理解に苦しみます。

******

 上記の学習項目を見てわかるように、『技術・家庭』は、
 各学習項目が、生徒の身近な物と情報の具体物から入り、
 その先に分化する数学・物理・化学・生物・地学と極めて関係が深く、
 「消費者教育」は倫理社会・政治経済と密接に関係し、
 「栽培」「保育」で「自然を愛する心情」に繋がりうるテーマを扱います。

 教科書の各項目は、図解を駆使して実に簡潔にまとめられており、
 本当によくできていると思います。

 下に引用した頁などは、ほとんど『物理』です。
20200613蛍光灯.jpg

 また、下に引用した頁は、栽培の進歩を解説していますが、
 平成8年当時に既に、化学肥料や農薬の弊害が指摘されています。
20200613栽培と生活.jpg

 化学肥料の弊害は、現在に至るも酷くなるばかりで、
 TPP協定締結は化学肥料や農薬の弊害をさらにい促進しかねません。
 現在の教科書は化学肥料や農薬の弊害をどう説明しているのでしょうか。 

 このような『技術・家庭』の内容の充実をみると、理科教育の導入として、
 『技術・家庭』を1年かけてじっくりと授業してはどうかと思うわけです。

 その際、分化する各教科の伏線とすべく、

●技術・家庭専任のおじさん先生とおばちゃま先生だけでなく、
 数学・物理・化学・生物・地学・倫社・政経の各担当の先生が共同で行う;
 
●各項目を徒に抽象的にせず、さらに、
 木材・金属・繊維等の素材をマクロな物性で特長づける、
 建造物の構造レベルで力学の概念と関係づける、
 電気作業レベルで電流・電圧概念と関係づける、
 食物・栽培(農業)・調理を通じて、
 身体感覚レベルでpH、物質の三態などの化学の概念と関係づける、
 被服・住居を通じて人間工学・デザイン・環境と関係づける、
 消費者教育を通じて人間社会を律する憲法・民法概念と関係づける、
 栽培(農業)・保育を通じて、
 人間の子供と食物・環境・資源・自然哲学の関係を意識させ、
 「自然を愛する心情」を浮かび上がらせる、等によって、
 分化する各教科に繋がるようにしておく;

●技術・家庭の作業室と理科室は、同じ部屋でできるようにして、
 技術・家庭と理科教育の学びの場を地続きにしておくことも
 必要と思います。

******

 『技術・家庭』を最初に学習した経験は、
 その先で分化する数学・物理・化学・生物・地学・倫社・政経で学ぶ
 抽象的な論理体系が、生徒の日常と結びついていることを
 生徒に絶えず意識させることにもなるでしょう。

 例えば、大学院レベルの応用物理・化学系研究者は、
 実は、手先が器用で、実験器具・実験装置・実験素材を、
 自分で組み立てたり、配線したり、合成したりして、
 その研究者にしかできない実験環境を整えて独自の研究を進めます。

 他ならぬ、私の先輩の村上先生がまだ若き大学院博士課程の頃、
 何日も徹夜して、分析対象の実験系が組みあがるまで、
 マニアックに、時々ニタニタっとしながら、
 実に楽しそうに作業していた村上先輩の姿を今も忘れることができません。
 (明け方に、村上先輩のために、
  研究室の麗しき女性秘書がコーヒーを入れてくれたりして、
  私も徹夜しているというのに実に羨ましいことでありました)。

 あの村上先輩の装置と格闘する作業過程は、
 白衣を着て理科の実験をすることとは程遠い、
 まさに『技術・家庭』の実技感覚であったと思います
 (『技術・家庭』の実技を苦にしない少年・少女が理科系に向いている、
  ともいえます)。

 多くの私の前後の世代の方たちは、
 『技術・家庭』は、技術は男子だけ、家庭は女子だけだった、
 と述懐するのですが、
 おそらく、現在は、そのように分けていないでしょうから、
 技術女子、家庭男子を育て、
 徹夜明けの理系女子に、料理の達人男子がコーヒーを入れてあげる
 などという場面も増えるのではないでしょうか。

 ちなみに、教科書にはこんな写真も載っています。
20200613技術・家庭グラビア.jpg

 ということで、理科教育は『技術・家庭』を入口にして、
 その先で、今のような数学・物理・化学・生物・地学・倫社・政経
 のように縦割・縄張・蛸壺的に分けてしまわず、
 合理的に相互乗り入れして、論理の筋は通しつつ、
 必要な暗記をできるだけ要領よくできるように、
 抜本的な教育体系の改革が必要であろうと思います。

 そのような変革された教育体系の中で、
 「自然を愛する心情」を理解するという哲学的な取り組みを、
 先生と生徒が、自身の成長と共に息長く続ける、
 ということになるのではないでしょうか。
posted by Dausuke SHIBA at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年05月10日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その5)化学は実学に徹すべきだ

 4月下旬に、私のところにアベノマスクが届きました。
GEDV0126.JPG

GEDV0127.JPG

 マスメディアは「一所帯あたり2枚」と報道していましたが
 私のところには事務所と自宅のそれぞれに2枚入りパッケージが届きました。

 厚労省が使用した郵便局の配布システム「タウンプラス」は、
 指定された地域の住所登録された全家屋に配布するのであって、
 「所帯」宛に配布するわけではないということです。

 厚労省も「所帯」宛とは説明していません。
 「布マスクの全戸配布に関するQ&A

 アベノマスクの配布は、
 国民宛を彷彿とさせる「所帯宛にお届けした」というようなものではなく
 要は、住所登録家屋にばら撒いたに過ぎません。

 「数さえ揃えばよい」と言うだけの絨毯爆撃配布をする方もする方ですが、
 「一所帯あたり2枚」と忖度報道する方もする方ということでしょう。

 ******

 よい機会なので、厚労省が、
 アベノマスクのことをどのようにアピールしているのかを調べたところ、
 「布製マスクの都道府県別全戸配布状況」というサイトの中で、
 政策の意義等が書かれていました。

 普通であれば、アベノマスク配布政策を中心にした説明がまずあって、
 最後の方に「布製マスクの都道府県別全戸配布状況」
 を参考程度に置いておくものと思いますが、
 さすがに数を揃えて配っておけばよい精神丸出しです。

 Q&Aを見ると以下のようなことが書いてあります:

 Q3.布製マスクに効果はあるのですか?
 「布製マスクには以下のような効果があると考えています。
  1.せきやくしゃみなどの飛散を防ぐ効果があることや、
    手指を口や鼻に触れるのを防ぐことから、感染拡大を防止する効果。」

 アベノマスクはメーカー表示もない雑貨にすぎませんが、このような雑貨が
 「感染拡大を防止する効果」を有するとまで書いているのに驚かされます。

 「感染拡大」は特定のウィルスである新型コロナを念頭にしていることは
 明らかですから、
 特定のウィルスの「感染拡大を防止する効果」を表示することは、
 雑貨品メーカーが広告として行えば、ほぼほぼ薬事法違反です。

 薬事法の管轄省庁が、
 このような雑貨の効果の誇大表示をしてよいわけがありません。

 関連業界が、雑貨であるマスクを、薬事法の観点から、
 如何に注意深く扱っているか、少しでも参考にしようという謙虚さは、
 「数さえ揃えばよい」官僚にはないのも当然といえます。
 『マスクの表示・広告自主基準』(特に第三条)
 
 既に配布されたアベノマスクは検品もされておらず、
 口の周りに装着するのも憚られるとんでもない雑貨ですから、
 このような如何わしい効能を説明されては、
 袋から出す気にもならなくなります。。

■化学は実学に徹すべきだ■
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文について、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)』では論文の内容を、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』では、
 論文の主テーマたる「自然を愛する心情を養う」ことを
 理科教育に組み込むことについて、私なりの考えをまとめ、

 さらに、『理科教育』から少し離れて、前々回の
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ
 では、私が1960〜1970年代に実際に受けた学校教育を通じて、前回の
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その4)物理は数学で考えるべきだ』では、
 大学のときに行った教育実習のときに強く感じた、
 教育の縦割・縄張・蛸壺の教育効果上の非効率について
 『数学・物理』を題材にして経験論的にお話ししました。

 今回は、『化学』を題材にして経験論的なお話しをします。

《高校化学の縦割・縄張・蛸壺教育》
 高校化学は、物理による原子・分子構造の概念を基礎にして、
 化学結合論を基礎に熱力学/酸と塩基/酸化・還元
 といった極めて抽象的な構造化学を延々と学習させられて、
 その後で、暗記に次ぐ暗記を迫られる周期律表に基づく無機化学を、さらに、
 止めを刺されるように暗記量がさらに多い有機化学を学習させられます。

 しかも、有機化学の最も重要な適用分野である、
 合成高分子・生体高分子まで辿り着かないことも多く
 (日本史・世界史で現代史まで辿り着かないことと同じです)、
 高校生物の基礎である細胞生物学に接続しないままになります。

 高校物理は、原子・分子構造の概念が、
 力学・電磁気学・波動・熱力学などを経て、最後に学習するため
 物理と同時に開始される高校化学を化学結合論から始めると、
 先生は、頭の中で、物理の基礎を解った上で教えているのですが、
 生徒は、頭の中に、物理の基礎がないまま丸呑みするしかない
 ということになり、
 多くの生徒が最初の段階で化学離れするのも無理はありません。
 
 私の高校時代「化学は暗記科目ではない」
 などと馬鹿なことを言っていた先生がいましたが、
 物理の基礎もなく化学結合論を丸呑みする生徒の身にもなってみろ!
 ということです。

《化学は元々如何わしい実学であると認識すべきだ》
 物理学は、この世界の仕組みを突き詰める自然哲学であり
 この世界が奇跡的に数学で既述できるため、
 抽象的な数学との親和性が強い思索的な学問です。

 化学は、元を辿れば、
 中世の怪しげな人(錬金術師)たちが金(gold)を合成できないかと
 実験室に日夜籠って失敗の山を築き上げたことが基礎となっており、
 およそ哲学とは縁のない、学問というよりは、
 俗物的な人間の欲望が渦巻く実学であり、その点は現在も変わりません。

 ノーベル賞の学者といえば、私にとっては、
 私が物心ついた頃に既に伝説の受賞者であった湯川秀樹先生、
 私が大学のときに量子力学の教科書を読んで、
 川端康成の小説を読んだときのように感動した朝永振一郎先生、
 お二人と同時代に活躍していたにも関わらず、
 あまりに先に進みすぎて受賞が遅れた南部洋一郎先生、
 日本語で物理学を考えておられ励みになった益川・小林先生
 の素粒子物理学の研究者が本流で、これらの先生方は
 宇宙の終焉まで見通しているのではないかと思えたものです。

 一方、その後に受賞が増えた応用物理・化学・生物分野の研究は、
 試行錯誤の実学精神の成果で、自然哲学の趣はあまり感じません。

 中でも、化学は、試行錯誤的に物質を生み出すことが先行し、
 物理と関係なく、物質は、
 手(原子価)の生えた質量(原子量・分子量)の異なる微小な粒子(原子・分子)の繋がりで構成されている、という怪しげな仮説を頼りに、
 自らが生み出した物質の変化の仕組みを理解してきたといえます。

 しかし、その怪しげな仮説は、それだけで精密な分子模型がつくれる程度に、
 物質の構造を定性的に説明できており、
 具体的な材料を取り扱うにはそれだけで十分といえます。

 私が身近にみる中小企業の発明の才ある技術者は、
 物理を基礎とする化学構造論を理解して発明しているわけではなく、
 材料を試行錯誤してこねくり回して失敗の山を築いた結果として、
 優れた発明に到達しており、
 錬金術師の遠い子孫といってよい魅力的に怪しげな方々です。

《化学は有機化学を基礎とすべきだ》
●有機化学と有機化学をベースとする理論化学●
 有機物質はC、H、Oなどの限られた少数の原子が結合して、
 官能基に対応する分子を構成し、Cの結合の連なりによって、
 様々な形態のモノマー、オリゴマー、ポリマーが規則的に構成されます。

 その規則性は、「手の生えた質量の異なる微小な粒子」を想定すれば、
 定性的には十分に理解でき、
 有機物質の分子構造を規則的に暗記することができるので、
 暗記が苦手な(私のような)生徒でも納得して
 (丸呑みでなくモチベーションをもって)暗記に取り組めるといえます。

 さらに、同じ定性的な理解に基づき、
 身の回りにある材料を構成する合成高分子や、
 自分自身を構成する生体高分子まで一直線に理解できてしまうので、
 暗記量が多いにしても、(無機物質以外の重要な)化合物は視野に入った、
 という達成感をもつことができます。

 具体的な有機物質とその構成元素が頭に入った上で、
 これらの有機物質を題材に
 「化学反応」「物質の三態」「気体分子運動論」「酸・塩基」「酸化・還元」
 などの抽象的な理論化学を学習すればよいと思います。

 既に暗記すべきことは暗記しているので、
 理論の理解に頭が使えるということになり、
 物理を基礎とする化学結合論を学習していなくても、
 「手の生えた質量の異なる微小な粒子」を想定するだけで、
 定性的な理解は十分できるということになります。

●無機化学と無機化学をベースとする理論化学●
 無機化学は、周期律表の理解をベースに学習することになりますが、
 周期律表も、何も物理を基礎とする化学結合論を学習する必要はなく、
 「手の生えた質量の異なる微小な粒子」を質量の順番に並べると、
 理屈はよくわからんが、周期律表に従って、分類することができる
 ことさえ理解して暗記すれば、周期律表に従って、
 金属・非金属で構成される無機物質の性状を暗記すればよいことになります。

 有機物質と無機物質を頭に詰め込んだ上で、無機物質で重要な
 「化学反応」「物質の三態」「気体分子運動論」「酸・塩基」「酸化・還元」
 などの抽象的な理論化学を学習すればよいと思います。

■エネルギー・システム・食料の科学■
 我が国が国際的に生き残るために最重要のテーマは、
 「エネルギー」「システム」「食料」であり、
 数学・物理・化学・生物・地学・地理・政経倫社を総動員する
 総合学習「エネルギー・システム・食料の科学」として、生徒には、
 「自然を愛する心情」と関連付いた哲学を基礎に、
 「科学的な見方」でロジカルに学習してもらうべきです。

 具体的には、以下のようなテーマを学習してよいと思います。
●エネルギーの科学:化学結合論・熱力学・発電・蓄電・環境・兵器
●システムの科学 :コンピュータと情報
●食料の科学   :農林水産業と地政学
●知的財産制度・国内法制度・国際条約

 私の感覚では、ここで初めて、
 物理を基礎とする化学結合論を学習して、
 化学の基礎とした「手の生えた質量の異なる微小な粒子
 の本質を考えても遅くはないということです。

 グローバリゼーションと新自由主義の嵐の中で、
 我が国がどのような状況あるのかについて、
 生徒も先生も無知であってはなりません。

 これらのテーマは、我が国の将来を生徒に託すという意義があり、
 生徒だけでなく、先生方が縦割・縄張・蛸壺教育から抜け出して、
 先生方ご自身が柔軟な思考をもって学習する必要があり、現状では、
 教育現場が国策とどう対峙するかについて真剣に悩まなければ、
 「科学的な見方」と「自然を愛する心情」の教育理念を貫けない筈です。

 文科省も面従腹背を貫いて、
 将来を見据えた我が国の教育行政の舵を取り切れるかが問われる筈です。

 というわけで、現在の高校化学は、全面的に改組して、
 『物質の科学』として再編すべきではないかと考えています。
物質の科学.jpg

 次回は、小中学校の『理科教育』に戻ってまとめてみたいと思います。
posted by Dausuke SHIBA at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年05月03日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その4)物理は数学で考えるべきだ

 『“アベノマスク”未配布分を回収 汚れや不良品発見で再検品
 衛生用品企業がこんな状況に陥ったら、配布分も含めて全品回収して、
 幹部が顔を晒しての謝罪会見を行うでしょう。

 マスクの生産・流通管理について全くの素人の
 厚労省・経産省・総務省の官僚マスクチームが、
 素人事業を仕切っているため、本当に無責任な事態になっています。
https://www.asahi.com/articles/ASN3B777MN3BUTFK02B.html

 ******

 友人からいただいたガリレオ温度計ですが、下の3個のガラス球が沈みました。
KIMG0103.JPG
 温度反応性が数時間あるので、全く実用性はないのですが、
 この2週間の気温上昇を実感するには十分です。
****** 

 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文について、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)』では論文の内容を、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』では、
 論文の主テーマたる「自然を愛する心情を養う」ことを
 理科教育に組み込むことについて、私なりの考えをまとめ、

 さらに、前回の
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ
 では、『理科教育』から少し離れて、
 私が1960〜1970年代に実際に受けた学校教育を通じて、
 強く感じていた、教育の縦割・縄張・蛸壺の教育の非効率について
 『算術・算数・数学』を題材にして経験論的にお話ししました。

 今回は、『数学・物理』を題材にして経験論的なお話しをします。

■物理は数学で考えるべきだ■

《高校の数学・物理が互いを全く参照しないことについて》
 小学校・中学校の算術・算数・数学も、
 およそ連携をとっているとは思えない縦割・縄張・蛸壺教育がなされていますが、
 高校の数学・物理も、何故頑なに独自路線に凝り固まるのか理解できません。

 高校の数学の内容は、以下の通りと思います:、
 @高校1年で習う集合論・整数論・方程式を中心にした代数;
 A高校2年で習うベクトル・行列を中心にした代数幾何と多項式関数の微積分;
 B高校3年で習う三角関数等の非多項式関数の微積分・確率・統計。

 戦前に女学校(今の女子高)で教育を受けた母から聞いていましたが、
 かつては、数学は「代数」「幾何」「解析」と呼ばれ、
 大雑把には、上記の「代数」「代数幾何」「微積分」に対応するのですが、
 私が高校生くらいの時代から、
 高校1年では「数T」、高校2年では「数U」、高校3年では「数V」
 と訳の分からない高校教育専門用語が使われており、
 中学の数学とも、大学の数学とも関連付けられておらず、
 これも縦割・縄張・蛸壺教育の一つの現れと理解することができます。
 
 高校の数学は、
 @は、最も抽象度が高く難解ですが、
 AとBは、
 ベクトルと微積分が空間的な概念と関係するので具体性があり、
 確率・統計が実際に数え上げれば何とかなることもあり、
 @よりも理解し易く、難解という感じは相当に減ります。

 私が大学生の頃、高校生の家庭教師をしたときに、高校生が、
 確率・統計の問題を解くときに、
 順列・組合せの公式(あの「nPr」「nCr」です)に頼り切りで、
 実際に数え上げる作業を惜しむため、そのうち、
 数え上げるという単純作業ができなくなり、公式の記憶もあやふやで、
 お手上げになったことがあります。

 高校の数学は中学の数学に比べて格段に難解であることは確かで、
 そうなると、何故こんな難解なことを勉強しなければならないのか、
 という数学を学ぶモチベーションの喪失に直面することになります。

 しかし、高校2年から学習するベクトルと微積分が、
 物理を理解するのに直接的に役に立つことが分かれば、
 数学を学ぶ大きなモチベーションになるはずで、逆に、
 数学で物理を理解することができることが分かれば、
 物理を学ぶ大きなモチベーションになるはずだと思うのです。

 もともと微積分は、ニュートンが力学を体系づける際に、
 道具として開発されたものですから、物理の本質と密接不可分であり、
 数学と物理を分離して学習する意味は全くないわけです。

 それを、何を考えているのか、公教育は頑なに、
 数学と物理を分離して関係づけずに学習させており、結果として、
 高校生が、数学と物理の密接不可分性を知らないままになり、
 後述するような、私が教育実習で経験したような大きな問題が生じてしまい、
 公教育の縦割・縄張・蛸壺教育の大きな弊害を実感した次第です。

《物理を数学で理解するとは》
 物理の力学のところで「保存力」という概念があります。
 「保存力」とは、
 物体をA点からB点に移動するとき、
 移動させようとする力のする仕事が移動経路によらず一定になる場合、
 元々物体に働いていた力をいい、その代表例として重力が挙げられます。

 このように説明されると恐ろしく抽象的で理解し難いのですが、
 高校2年で学習するベクトルで説明すると、
 特段に何のことはないことであることが理解できます。

 鶴亀問題を
 「鶴亀算」で説明されるととても複雑ですが、
 「連立方程式」で説明されると何のこともなく理解できる
 のとまったく同じです。

 試しに、数学で物理を理解することを試みてみますが、
 現役の高校2年生は大丈夫ですが、
 ベクトル・三角関数など、ここ半世紀見ていないという方でも、
 思い出しながら頑張って理解してみて下さい。

●数学で学習する初歩的なベクトル演算●
(1)ベクトルの定義
  ベクトルとは長さと向きをもつ有向線分のことをいい、
  点Pから点Qに向くベクトルは、以下のように表現されます。
図11.jpg
 図を対応させると以下のようになります。
P14.jpg

(2)ベクトルの和
 ベクトルの和は、
 最初に足されるベクトル1の始点Pと最後に足されるベクトル6の終点Q
 とをつないだ有向線分となり、以下の図では、
 ベクトル16までの和は、ベクトルに等しいということになります。
P11.jpg

図12.jpg

(3)ベクトルの内積
 ベクトルの内積は以下の式で定義されます。
図13.jpg
 図を対応させると以下のようになります。
P12.jpg 

(4)ベクトルの内積の分配法則
 片方のベクトルが、ベクトル16の和である場合、
内積は以下のように計算できます。
図15.jpg

(5)応用問題
 一方のベクトルが鉛直上方に向き、
 他方のベクトルが、
 水平右向きのベクトルと鉛直上方向きのベクトルの和である場合、
 以下のように計算されます。
P13.jpg

図16.jpg

図17.jpg
 のなす角度がπ/2=90°、のなる角度が0°なので、
 cos(π/2)=cos90°=0
 cos(0)=cos0°=1
 という公式を利用しています。

●力学の基礎●
(1)力
 力Fはベクトルである。
(2)変位
 質量mの物体が点Pから点Qに移動したとき、ベクトルSを変位という。
図21.jpg
(3)仕事
 力Fが物体Mを点Pから点Qまで移動させた場合、
 力Fと変位Sの内積を、力Fが物体Mになした仕事Wという。
図22.jpg

P22.jpg

●保存力・重力・位置エネルギー●

(1)保存力
 力Fが一定であれば、
 力Fが物体Mになした仕事Wは、移動経路によらず一定(同じ)である。

 これは、簡単に証明できます。
@力Fが、物体Mを、直線的にベクトルSだけ移動させた場合に、
 力Fが物体Mになした仕事Wは以下の式で表されます。
図22.jpg
A力Fが、物体Mを、迂回経路S'を経由して移動させた場合の、
 力Fが物体Mになした仕事W'は以下の式で表されます。
図24.jpg

P21.jpg
Bつまり、力と迂回経路S'の道のりの複数の変位iの内積は、
 複数の変位iのベクトル和との内積になり、
 複数の変位iのベクトル和が、どの経路を辿ろうが変位になるため、
 仕事W’は経路によらず、常にWと同じということになります。
C従って、一定の力は保存力であるということになります。

(2)重力
 力が重力であれば、重力加速度をとすると、
図25.jpg

P23.jpg
 重力mは、常に鉛直下方に働く一定の力だから、保存力である。

(3)位置エネルギー
 重力mに釣り合うように上向きの力mを加えて、
 物体Mを変位Sだけ移動させると、mの力が物体Mになす仕事は、
 以下のように計算できます。
P24.jpg

 は水平の変位と垂直の変位のベクトル和だから、
図27.jpg
 となって
図26.jpg
 この式の導出は、少し上の方で導いた以下の式を使っています。
図17.jpg

 物体Mが高さhにおいて有する位置エネルギーはmgh
 であるというお馴染みの結果が得られたことになります。

 即ち、重力場における位置エネルギーは、
 質量mの物体Mを、重力F=mgに逆らってA点からB点に、
 どのような移動経路を辿って移動させても、
 高さhだけで決まるということになります。

 ******

 以上のことを、ベクトルを使わずに説明すると、
 例えば、以下のような説明になり、説明者自身も言っていますが難解です。
 ▼保存力
 FNの高校物理」の「1.物理(1)力学 保存力
 ▼重力場の位置エネルギー
 FNの高校物理」の「1.物理(1)力学 仕事とエネルギー(3)重力に伴う位置エネルギー

 以上は、力Fが一定である重力だけを取り上げたので、
 ベクトル演算の範囲だけで説明できましたが、
 例えば、力Fが、場所によって変化する、
 ばねのような弾性力や、万有引力のような中心力の場合は、
 微積分を使うことになるのですが、
 いずれも、高校の数学の範囲で十分に対応できるので、
 微積分を使えばよいのです。

 本来物理のために開発された数学が、
 いかに物理を理解し易いものにしており、
 問題を解くためのいかに重要な道具であるのかを生徒に経験させ、
 さらに、数学で理解した物理の数学的構造が、
 物理以外の教科でも類推的に適用できるところまで経験できれば
 生徒のサイエンスに向けた視野は大きく広がるように思います。

《教育実習で驚いたこと》
 私が広島大学付属高校の生徒の前で、教育実習をさせていただいたとき、
 授業の課題がたまたま、物理の位置エネルギーだったのです。

 広島大学付属高校の生徒は馬鹿ではないので、
 ベクトルを使って教えても理解できるだろうと踏んで、
 授業で上記のような説明をしました。

 生徒も担当教官も驚いたようでしたが、
 生徒は、何とか理解できたようであり、
 担当教官は、高校数学のカリキュラム内であり、
 ベクトルを使用した説明に問題はないと言ってくれたので、
 ほっとしたことを覚えています。

 しかし、私が驚いたのは、私の授業を生徒と共に聞いていた、
 教育実習の同期生たちでした。

 彼らは、広島大学理学部の物理系学科の修士たちですが、
 私の説明を聞いて、
 「初めて、保存力や位置エネルギーのことが理解できた」
 と感動していたのです。

 おい、おい、おい、
 君たちが生物系の修士の学生ならわからないでもないが、
 物理系の修士課程の学生で、それはないのではないか、
 と思ったものです。

 ですから、現状の、高校の数学と物理を相互に参照をしない、
 縦割・縄張・蛸壺教育の下で、そのまま何も考えずに先生になったりすると、
 先生自身がいつまでも算数による物理の理解から抜け出せず、
 本来物理のために開発された数学によって理解すべき物理の本質を
 生徒に伝えることができないのではないかと思うわけです。

******

 次回は、高校における物理・化学の縦割・縄張・蛸壺教育について
 考えてみます。
posted by Dausuke SHIBA at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年04月25日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その3)算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ

 『新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか
 コロナ禍の下で、
 厚労省管轄の医療実務機関と文科省管轄の大学医学研究機関の協力関係が
 十分でないことがコロナ対策の実効を妨げる一因とも言われています。

 これはお役所事業の徹底した縦割・縄張意識に起因しますが、
 お役所事業である教育の分野でも、科目間の縦割・縄張が貫徹され、
 生徒が柔軟に理解することを妨げ、
 自分の頭で考えることができない日本人を再生産し続けている
 大きな原因の一つではないかと昔から思っています。

******、
 
 先の2回のブログ記事では、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文について、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)』では論文の内容を、
 『『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)』では、
 論文の主テーマたる「自然を愛する心情を養う」ことを
 理科教育に組み込むことについて、私の考えをまとめてみました。

 今回からしばらくは、『理科教育』から少し離れて、
 私が1960〜1970年代に実際に受けた学校教育を通じて、
 強く感じていた、教育の縦割・縄張の教育効果上の非効率について
 経験論的にお話ししてみます。

■算数で鶴亀算をきちんと教えるべきだ■

《鶴亀算を発見的解法で教えるべきではない》

 小学生の時に、算数の「お話問題」(今は「文章題」というようですが)
 の宿題を家で解いていたところ、まったくわからなくて、
 夕方の戸越銀座での買い物から帰ってきた母が
 「どれどれ」と言って見てくれたのですが、
 「これ鶴亀算ね」「こちらは旅人算ね」と言いながらスラスラ解いてしまい、
 「問題を解く」という人間の行為を生まれて初めて目の当たりにして、
 驚愕したことがあります。

 太平洋戦争前に小学校教育を受けた母の世代は、
 「鶴亀算」「旅人算」等の、今では特殊算と呼ばれる算数の問題解答技法
 (以下「算術」と名付けておきます)を学校で教えられていたのです。

 しかし、おそらく今もそうだと思うのですが、
 太平洋戦争後の小学校教育では算術は教えずに、
 戦前は算術でスラスラ解ける「お話問題」を、算術を使わずに、
 生徒に発見的に解法を導かせようとする算数教育
 (以下「発見的解法教育」)を行ったのだと思います。

 発見的解法教育については、例えば、以下の論文又は記事:
 『算数教育における文章題指導のあり方に関する研究
  −知的自律性・学び合う共同体の観点から−
』や、
 『小6算数「鶴亀算」指導アイデア
 に紹介されているようなことをイメージしています。

 この算数の「お話問題」でしか使わない算術を発見させるために
 私は、先生に発見的解法教育(相当に原初的だったのでしょうが)
 を試されたわけで、結局のところ、
 徹頭徹尾、理解できない状態から抜け出すことができず、
 算術教育を受けた母がうらやましいと思いつつ、
 何も得るものがないまま悶々とした小学校時代を過ごしたのでした。

 しかし、中学校に進学すると、数学で連立方程式を習って、
 あっけなく「お話問題」が解けてしまうことに出会い、
 あの苦しんだ「お話問題」の発見的解法教育とは何だったのか、
 という思いが今だに忘れられません。

《算数とはどのような教育か》
 私は、教育とは、人類の過去の知的資産のエッセンスを、
 生徒に追体験させて、
 人類の未来に発展的に引き継いでいく糧とする営みと考えています。

 その中で、算数とは、生徒にとって、
 ・この世には「解かなければならない問題」というものがあり、
 ・この世には「その問題を解く方法」というものがあるということを
 この世に生まれて初めて突き付けられる教育的営みである
 と考えることができます。

 その「解かなければならない問題」の典型が、
 算術における『鶴亀算』と言ってよいと思います。

《算術としての鶴亀算》
●問題●
 鶴と亀があわせて10匹います。
 足の数を数えると28本です。
 鶴と亀それぞれ何匹いますか。
●解答●
 @10匹の全部が亀とすれば足の数は40本;
 A10匹の全部が亀とすれば足の数は12本過剰:
 B10匹の亀のうち1匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×1=2本減る(過剰が10本になる);
 C10匹の亀のうち2匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×2=4本減る(過剰が8本になる);
 D10匹の亀のうち3匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×3=6本減る(過剰が6本になる);
 E10匹の亀のうち4匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×4=8本減る(過剰が4本になる);
 F10匹の亀のうち5匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×5=10本減る(過剰が2本になる);
 G10匹の亀のうち6匹を鶴に置き換えると、
  足の数は2×6=12本減る(過剰が0本になる)
 (順列・組合せを勉強するときに、べたに数え上げることができると、
  法則性をよく理解できることがありますが、その作業に似ています)

 即ち、10匹の亀の足の過剰数が0になるまで置き換えられた鶴の数は、
 過剰数(12)÷(亀と鶴の足の差2)=6匹
 であり、亀の数は、     10−6=4匹
 ということになります。

 この典型的な問題と解法を(理屈はともかく)頭に叩き込めば、
 鶴亀算が適用できる問題は解けるようになるということになります。

《算数としての鶴亀算》
 このように、
 ・この世には「解かなければならない問題」というものがあり、
 ・この世には「その問題を解く方法」というものがある
 ということを鶴亀算を典型事例として実感させ、
 ・さらに1つの典型事例を覚える(望ましくは理解できる)と
  それを応用して類似の問題を解くことができる
 ことを追体験させることが、
 算術を題材とした算数教育であると思うわけです。

 この実感と追体験に基づいて、生徒が、
 「解かなければならない問題」は他の教科にもあり、
 「その問題を解く方法」がその教科なりに蓄積されていることを
 発展的に学んでいくことが、
 学校教育の教科学習の側面にはあると思います。

《数学として抽象化する過程の題材としての鶴亀算》
 鶴亀算は数学的には、亀の数をx、鶴の数をyとして、
   x+ y=10
  4x+2y=28
 なる連立方程式を解けば、何の苦労もなく解けることを
 実感することが、数学教育の入り口となるはずです。

 そして、考察する対象を変数に置き換えて、
 変数の間の四則関係を考慮して問題を解くことは、
 代数・幾何の方向では、ベクトル、行列、線形代数等に、
 解析の方向では、微分積分、ベクトル解析等に繋がり、
 最も重要な「解かなければならない問題」としての
 物理・化学に繋がることになります。

 例えば、上記の連立方程式は、行列で表示すると、
式1.jpg
 となり、ベクトルと行列で、
式2.jpg
 と表現すると、以下のようなベクトルの線形変換を表現する式:
 
 となり、高等数学まであっという間に展開されることになります。

《算数教育の問題点》 
 算数の「お話問題」では、
 算術で(戦前に生まれた母も)解ける問題しかでないので、
 公教育では、それらの問題が解ける程度の算術を教えるべきだと思います。

 そのためにある典型的な事例についての解法としての算術を
 (望ましくは理解して、理解しなくても暗記してでも)覚え、
 その算術を、具体的な「お話問題」に当て嵌めて、
 完全に当てはまる場合、少しアレンジして当て嵌める場合
 等を経験することで、
 「算数の問題は解くことができる」ということを体験させること
 が重要なのではないでしょうか。

 法律は一種の典型的事例に対する決め事であり、
 現実の事件に対して、どの法律を、どうアレンジして当て嵌めるかを
 瞬時に判断しなければならないで、
 算術を使って問題を解くことは、法律の実務に重なります。

 「お話問題」の解法を、先生が生徒に対して、
 発見的に誘導するなどという作業は、生徒からみれば、
 単に教育者の実験材料にさせられているだけで、
 教育者の自己満足のためとしか思えません。

 生徒からみれば、発見的解法では、
 「問題を確実に解くことができる」ことが実感できないので、
 いつまでも算数を学ぶことの達成感を持つことができません
 (少なくとも私はそうでした)。

 また、公教育の先生方は国公立の一流大学を卒業されている場合も多く、
 これらの先生方で、中学受験された方は、
 後述するように、中学受験のために算術を頭に叩き込んで、
 算術の達人であるような場合も多いのではないでしょうか。
 
 ご自身が、算術でスラスラ解けることを実体験していながら、
 生徒にはそれを教えずに発見的解法を適用することに拘るところが、
 「小学校算数」が算術とも数学とも拘わりを持たない、
 縦割・縄張的で閉鎖的な蛸壺教育になっているように見えるのです。 

《算数で算術をどの程度教えるべきか》
 算術で解ける問題には限界があり、
 より広範な問題を解くための方法として数学が存在する、
 ということを経験させることが次の段階の教育であると思います。

 ですから、
 算術それ自体を子供の能力の選別に使うほどに精密に教え込むことは
 全く意味がないと考えます。

 このブログを書くに当たり、現代の教育で算術がどう認識されているかを
 ネットでざっくりと調べたところ、算術は、
 やはり小学校では教えられておらず、専ら塾で教えられていて、
 中学受験の必須アイテムとなっていることがわかりました。

 塾の整理によれば、算術を構成する特殊算は20種類以上あるようで
 (中学受験:特殊算は何種類ある?算数の文章題の見分け方)、
 それはそれで趣味で勉強する分には面白いと思いますが、
 中学受験のために、小学生が、
 算術の技法を身に着けるための勉強を必死に行うのは、
 どう考えても不毛でしかないと思います。

 そのような不毛な勉強をさせるのであれば、
 読書しなければ解けない問題を課して、
 小学生の読書の時間を増やす方が教育的なのではないでしょうか。
 
 大学を卒業し、難関の弁理士試験を一発で合格して、
 社会経験を積むことなくそのまま弁理士をする方も多くいらっしゃいますが、
 その中には、多くの解法パターンを頭に詰め込み、
 現実の事案に対して当て嵌る解法パターンを選択するだけで、
 既存の解法パターンで解決できなければそれ以上考えずに、
 顧客に「どうしますか?」と丸投げする弁理士が少なからずいます。

 上記の問題は弁理士だけの問題ではなく、
 桜を見る会・森友問題・アベノマスクなど、
 近年の政治家や高級官僚が自分の頭で考えているとは
 とても思えない状況を見るにつけ、
 中途半端にならざるを得ない発見的解法教育か
 解法パターンをどれだけ詰め込んでいるのかが能力選別の基準のような
 算術詰込教育しかないような算数教育は見直さなければならないと思います。

 次回は、高校における数学・物理・化学の縦割・縄張的教育について
 考えてみます。
posted by Dausuke SHIBA at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年04月18日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その2)

布マスク2枚を全住所に466億円かけて配布する

 この国の首相は、戦後教育をたっぷりと受けて育っている筈ですが、
 コロナ禍下の政権・メディアの周辺のあまりにも無責任な状況が、
 太平洋戦争敗戦前後の日本の状況と瓜二つであることを見るにつけ、
 日本人に自分の頭で考えて責任を真っ当することについて
 戦後教育は、全く機能しておらず、壮大な失敗であったと、
 しみじみと感じざるをえません。

 ******

 気が滅入る話題が続きますが、春の温かさと共に、
 友人からいただいたガリレオ温度計の一番下のガラス球が沈みました。
KIMG0093.JPG
 まるで理科の教材ですが、季節を感じるインテリアとして癒されます。

■前回の復習■
 前回は、
 私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された
 村上清文先生から届いた理科教育に関する論文の内容について、
 まとめてみました。

 本論文の概要は以下の通りです。
〔題 目〕「日常の現象から理科の見方・考え方を養う:
      水の表面で起こる現象の理科教育教材としての提案」
〔掲載誌〕 山口大学教育学部研究論叢(第69巻 193頁〜202頁 2020年1月)
〔著 者〕 村上清文・和泉研二

 論文の内容と概要は、こちらからみることができます↓
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/metadata/D580069000023

 私の理解では、本論文は以下のような内容です。

日本の理科教育の目的が、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方を養う」ことと、
 A「自然を愛する心情を養う」ことにあるが、
 文科省は、Aについて、
 ・教員に必要な具体的な教材を提示しておらず、
 ・指導要領でも抽象的な努力目標的解説に留めている。
 
 そこで、本論文は、以下の要旨A及びBについて論考しています。
 A.Aに対する教員のための具体的な教材として、
   水に関係する日常の現象を教材とする理科の見方・考え方を提供する。
 B.Aの観点と総合的に密接不可分に結び付くと考えられる
   日常の現象を包括する「環境」概念を教材化する方向性を検討する。

 論旨Aと論旨Bが、ほとんど関連付けられずに独立に展開されるため、
 私としては、論旨Aが論旨Bの中でどう関係づけられるかに興味があったので、
 論文全体としては若干物足りませんでした。

 しかし、要旨Bについては、著者の以下の問題意識が提示されています。
 
 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」し、
 「喜び」と「愛」は一体であり、
 これらがかけがえのないことであるとの認識の上で、理科教育では、
 「目標として「自然を愛する心情」を養うことが受け継がれてきた」が、
 その一方で、その自然環境に対する日本人の問題意識は薄かった。

 そこで、著者は、自然環境に対する@「科学的な見方」を組み込むことで、
 A「自然を愛する心情」を養うことに繋がる、
 @都にを統合した「理科の見方」を構成できると考えます。

■「自然を愛する心情」とは■
 本論文では、論旨Bは以上の問題意識の提示に留まっており、
 著者のさらなる深堀を期待したいと思います。

 今回は、本論文の著者の問題意識に沿って、
 私なりに論考をさらに深堀(大して深くはなりませんが)してみようと思います。

《「自然を愛する心情」における「自然」》
 「自然を愛する心情」における「自然」が何を意味するのかを少し考えてみます。

 著者の指摘する
 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」
 していることは、既にステレオタイプの日本文化論の文脈で、
 いろいろなところで言われることですが、
 ここに登場する「自然」を定義しようとすると意外に難しいことがわかります。

 日本人はは昔から自然環境に恵まれているとされますが、
 ここでいう「自然環境」は、全くの手つかずのままの原生林のようなものではなく、
 多くの場合、人間が手を加えて管理した、
 相当に加工度の高い自然環境であると考えた方が良いと思います。

 全くの手つかずのままの原生林も、我が国の場合には、かつては、
 人間が遠目で見る限りは、四季の移り変わりに伴い、
 風・雨・雪の小道具を配した中で、木々や花の色彩の変化の美しさを
 十分に愛でることができたといえるでしょう。

 しかし、我が国の土木工事の歴史は、おそらく農業の始まりに遡るほどに古く、
 現代に至っては、全くの手つかずのままの原生林などほとんどなく、
 山奥をどこまで進んでも、人間が生活する家屋が絶えることはなく、
 それでも山林が管理されているうちは人工的とはいえ、
 山林全体の秩序感がある種の美しさを感じさせますが、
 近年進みだした管理することが放棄された山林は、
 ただただ荒涼感ばかりが漂うことになります。

 このように考えると、それでも日本人が「自然を愛でる」というのであれば、
 「自然を愛する心情」における「自然」とは、
 原生的な美しさを提供してくれる「自然」とは異なると考えられます。

《極端な例を考えてみる》
●例1●
 例えば、地球を含む太陽系の星々、さらに天上の星座を構成する銀河系の星々、
 さらに、肉眼ではもはや見ることができない銀河系外の星々ですが、
 これらも「自然」といえば「自然」であり、遠目には美しいといえますが、
 地球上の生態系など望むべくもないことを考えると、相当に荒涼感が漂います。
●例2●
 世界には砂漠で生まれて死んでいく多くの人々がいますが、彼らは、
 日本列島に生まれて死んでいく日本人とは全く異なる人生観・自然観を
 持つことでしょう。
 また、ロシアの大地に広がるツンドラや、南極の氷原も、
 シベリア鉄道の周辺や南極基地の周辺以外は、
 手つかずのままの自然という意味では、地球上で最大規模を誇るように思えます。

 このような砂漠・ツンドラ・氷原は、
 「自然を愛する心情」における愛でる対象となる自然といえるのでしょうか?
●例3●
 原爆投下後の広島や長崎は「75年間は草木も生えない」といわれていましたが、
 実際にはそのようなことはなく、草木は逞しく再生し、
 広島市は、私が広島大学の学生だった1970年代には、
 緑生い茂る美しい都市になっていたのでした。

 チェルノブイリ事故や福島原発事故の跡地は今どのような状況なのでしょうか。

《「自然を愛する心情」とは》
 以上のような、天体、砂漠、ツンドラ、氷原、放射能汚染地は、
 「自然を愛する心情」で愛でる対象となる自然といえるのでしょうか?

 天体・砂漠・ツンドラ・氷原・放射能汚染地のような、
 人間にとって過酷な環境は、よく言われることですが、
 欧米人は、人間が利用できるように克服すべき対象と考えますが、
 日本人は、その中に宿る小さな自然を愛でる対象と考えるのだろうと思います。

 例えば、アスファルトで覆われた都会の道端に咲く雑草としてのタンポポを、
 欧米人は単に刈り取るべき雑草と考え、
 日本人は小さな自然として愛でると考えられます。

 以上のように考えると、
 「自然を愛する心情」における「自然」とは、外形的な自然環境ではなく、
 日本人にとって、そこに「生命」が宿ることを感じることができるある種のものを
 「自然」として理解しているように思えます。

 また、日本人は天体である月自体を兎に見立てて月見をして愛でます。

 月面は、「科学的な見方」により、
 地球上での自然環境に相当する生命が存在せず、
 荒涼とした無機物質の広がりであることが既に常識とされていますが、、
 それでも、日本人は月を愛で続けています。

 ここまでくると、日本人は、
 ・相当に加工された自然環境、
 ・そこに「生命」が宿っていると感じられる環境、
 ・さらに、たとえ「生命」が宿っていそうにない環境でも、
 日本人はそれらを「自然」として愛で得るということになります。

 このような日本人の「自然を愛する心情」は、
 たとえ「生命」が宿らない自然ですら愛でる対象であることになり、
 これはもう、
 万物に神が宿るとする日本人の宗教観と密接不可分な心情である
 と考えなければ理解できないことになります。

《「自然を愛する心情」と対極にあるもの》
 こうした日本人の「自然を愛する心情」は耳障りの良い響きをもちますが、
 一方で、日本人は、どうして、
 ・日本国中くまなく50基強の原子力発電所を平気で建設し、
 ・原発事故後の汚染水を平気で海に流そうとし、
 ・日本の伝統農業や水環境を壊滅させかねない、
  水道の民営化、種苗法の改正、TPP協定の締結等を平気で行い、
 ・コロナ禍の下、日本国民の生命が脅かされている状況で、
  オリンピック開催を最優先にした政策を平気で進められたのか、  
 これらの「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる、
 日本人による利権のための躊躇なき行動をどう説明したらよいのか。

 文科省と教育関係者は、「自然を愛する心情」を教育の基礎として認識するならば、
 その対極にある「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる上記の行動を、
 文科省に隣接する官公庁が率先して行うことも視野に入れた上で、
 教育行政なり教育研究なりを語るべきではないかと思うのです。
 (前川喜平氏くらいの優秀な面従腹背官僚であれば視野に入れているか?)
 
■教育の基礎としての「自然を愛する心情」■
 以上のように考えると、「自然を愛する心情」とは、
 理科教育に限らず、全ての教科、あるいは教科に分化する前の段階で、
 教育の基礎となる高度に哲学的な命題であり、
 これを真剣に考えることは、現代の我国の深刻な問題を考えることに直結し、
 日本人が一生を通して自らの頭で考えるに値する命題であろうと思われます。

 そして、「自然を愛する心情」を考えようとすれば、
 「科学的な見方」だけではなく「哲学的」「歴史・文化的」「法政治的」「芸術的」
 等の様々な観点からの見方が必要であることになります。

 ここまで大風呂敷を広げると、「自然を愛する心情」を教育の場に取り込むには
 何世紀もかかりそうな気もしますが、
 それほど大上段に構える必要もないと思っています。

 教育の場では、「自然を愛する心情」は、
 先生方が、その高度な哲学的命題に常時取り組むご自身の姿を
 生徒に見せ続けることで、
 生徒の頭と心に刷り込まれていくのではないかと思っています。

 即ち、「自然を愛する心情」のような抽象的概念は、
 先生方が悪戦苦闘して取り組む姿を通して、
 自分の頭で物事を考えるとはどういうことなのかを含めて、
 生徒の頭と心に刷り込ませていくしかないのではないかということです。

 現状のようなブラック企業まがいの教育環境で、
 先生が自分の頭で何か考える時間も余裕もなく、
 生徒の面前で、神戸の同僚教師の醜悪ないじめ問題のような
 救いようのない教育崩壊を見せてしまうような余裕のなさでは、
 到底「自然を愛する心情」など教育の過程に載せられる筈がありません。

 ******

 「自然を愛する心情」を教育の場に取り込むための基盤は、
 まずは、全教科の先生方が共同して、
 「自然を愛する心情」を(先生方が)学ぶのに有用な文献リストを作成する
 ところから始めるのもよいのではないかと思います。

 典型的には、日本人の自然を愛する心情や宗教観を文字によって表現してきた
 奈良・平安時代から現代にいたるまでの代表的な文学・戯曲・思想・歴史書を
 リストアップする作業を1年程度かけて行う
 (図書室の司書の先生が活躍できるのではないでしょうか)。

 ここには、手塚治虫の『火の鳥』等の漫画や、
 小松左京の『日本沈没』や欧米人の自然観を体感できるSFも含めて、
 ジャンルを問わず収集することで、子供との接点を担保できると思います。

 その後、先生方の興味に応じて、リストアップされた中から選んだ教材を、
 1年かけて研究し、自然を愛する心情の観点から、
 (理科の先生が小説に、国語の先生が科学史に挑戦してもいいでしょう)、
 その成果を、生徒や親やOB・OGとなったかつての生徒も集った中で
 学内研究発表して意見交換する、なんていうこともありではないでしょうか。

 そのような先生方の息の長い継続的な活動を見せ続けることによって
 生徒にとっては、小学校の6年間、中学校の3年間の、
 節目節目の発達段階において、
 先生方自身が成長し、先生方が「科学的に物事を考える」姿に接することで
 「自然を愛する心情」を発見的に学び、
 生涯に渡り自分の頭を使って物事を考えることの意味を感じ取る
 ことが期待できるのではないかと思うのです。

 そして、現代の「自然を愛する心情」などかけらもないようにみえる、
 上述した利権まみれの日本人の在り方について、
 自分の頭で真剣に考えることに繋がるのではないかと思っています。

 ******

 以上が、村上先生の論文を読んだときに私なりに考えた、
 「自然を愛する心情を養う」ことの意味でした。

 次回は、「自然を愛する心情を養う」から少し離れますが、
 算数・数学、物理・化学教育において、教科の縦割り的・縄張り的な教え方を、
 もう少し合理的・本質的な教え方にできないものかについての、
 私の経験的持論を語ってみたいと思っています。
posted by Dausuke SHIBA at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育

2020年04月05日

『理科教育』を弁理士が考えてみた(その1)

 「布マスク2枚を全住所に配布する

 この国の首相は、戦後教育をたっぷりと受けて育っている筈ですが、
 コロナ禍下の政権・メディア周辺のあまりにも無責任な状況が、
 太平洋戦争敗戦前後の日本の状況と瓜二つであることを見るにつけ、
 日本人が自分の頭で考えて責任を全うすることについて
 戦後教育が全く機能しておらず、壮大な失敗であったと、
 しみじみと思わざるをえません。

 そんな中で、数学の超難問「ABC予想」を望月先生が証明したらしい
 という話を聞くと、一縷の希望というか光が見えてくる思いです。

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 気が滅入る日々ですが、せめて、
 私の事務所に近いところで見た春の雰囲気を画像見物して下さい。
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 先日、私の大学時代(広島大学理学部大学院)の先輩で、
 山口大学教育学部で教授をされ昨年退官された村上清文先生から、
 村上先生が執筆者の一人である理科教育に関する論文が届き、
 「読んで感想を聞かせてくれないか」とのことで読んでみたところ、
 とても新鮮な刺激をいただいたので、
 今回は、この論文をきっかけ話として、
 理科教育について私の思っているところを書いてみます。

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 昨年(2019年)、村上先生が上京した折に、
 大学院OBが集って飲み会をしたのですが、
 皆がほどよく酔っぱらった中で、村上先生が、
 日本の理科教育の目的は、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方」を養うことと、
 A「自然を愛する心情」を養うことことにあると話しだしたのです。

 それを聞いて、日本酒を飲みすぎて相当に酔っぱらっていたのですが、
 @は、理科教育だから、当然に目的としているだろうけれども、
 Aは、理科教育に似つかわしくない、やけに文学的な言い回しだな
 と、私のふやけた頭に強く印象に残ったのでした。

 そのため、本論文の最初の1行目を読んだときに、
 あの時の話のことなんだと合点がいき、
 あの時の話がいったいどう展開するのだろうと興味深いものがありました。

■論文の概要■
  論文の内容と概要は、こちらからみることができます↓
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/metadata/D580069000023

〔題 目〕「日常の現象から理科の見方・考え方を養う:
      水の表面で起こる現象の理科教育教材としての提案

〔掲載誌〕 山口大学教育学部研究論叢(第69巻 193頁〜202頁 2020年1月)
〔著 者〕 村上清文・和泉研二

■論文の要約■
〔要旨〕(私の理解です)
 日本の理科教育の目的は、伝統的に、
 @「科学的な見方・考え方を養う」ことと、
 A「自然を愛する心情を養う」ことことにあり、
 文科省は、これら2つの観点を内包するように、
 「理科の見方・考え方を養う」と表現している。

 しかし、文科省は、Aについて、
 ・教員に必要な具体的な教材を提示しておらず、
 ・指導要領でも抽象的な努力目標的解説に留めている。
 
 そこで、本論文は以下を論旨として展開される。
 A.Aに対する教員のための具体的な教材として、
   水に関係する日常の現象を教材とする理科の見方・考え方を提供する。
 B.Aの観点と総合的に密接不可分に結び付くと考えられる
   日常の現象としての「環境」概念を教材化する方向性を検討する。

〔構成〕(本論文の小見出を列挙してみます)
 論旨Aは、以下の2〜5及び6−1で詳述され、
 論旨Bは、以下の及び6−2で詳述されています。 

1.緒言

2.水の基礎知識
2-1.地球上の水の起源、分布及び循環
2-3.水の性質
2-3-1.形
2-3-2.表面張力
2-3-3.濡れ
⇒ 小見出番号に誤記がある(「2-2」がない)ようです。

3.水面で働く力
3-1.水の粒(分子)同士は引っ張りあっている?
3-2.メニスカスの観察
3-3.1円玉を浮かべてみよう
3-4.二枚目を縦にして
3-5.集合するわけ

4.水-空気界面が関係する日常の事例
4-1.筆や髪の毛は濡れると纏まる
4-2.水面上の泡は寄り集まる
4-3.泥団子や白玉団子を作るには水が必要
4-4.水に浮かんだ浮き草や花びらは寄り集まる
4-5.濡れ手で粟
4-6.逆さコップの水が落ちない訳
4-7.昆虫の脱出戦略

5.界面活性剤の効果
5-1.盛り上がった水はどうなる
5-2.アメンボが溺れる?

6.教材化にあたって
6-1.本教材の効果
6-1-1.科学の始まり
6-1-2.驚きと不思議さ
6-1-3.納得
6-1-4.環境教育
6-2.理科の見方における環境の位置づけ


■本論文の私の理解■

《論文の構成について》
 論旨Aと論旨Bがほとんど関連付けられておらず、
 論旨Aは2〜5及び6-1だけで一まとまりの、
 水を題材とした@「科学的な見方・考え方」の説明で、
 論旨Bは、A「自然を愛する心情」に触れながらも、
 6-2の流れで、論旨Aとは独立に展開されています。

《論旨Aについて》
 私は、会社勤務時代に界面科学を基礎とした製品開発をしていたので、
 ここに説明された事項はとても馴染みがあり、これらの事項が、
 このような形で理科教育の教材として子供達に提供され、
 その教育的効果がこのようにして評価されるのか、
 という、教育学部の先生方の教育上のテクニカルな取扱いが面白いと思いました。

 一方で、私としては、論旨Aが、
 主たるテーマである論旨Bの中でどう関係づけられるかの方に興味があったので、
 論旨Aがそのような関係づけがなされていないのが残念でした。
 
《論旨Bについて》
 本論文の著者は、「1.緒言」で、理科教育の目的として、
 @「科学的な見方・考え方」及びA「自然を愛する心情」を養うこと
 を内包するはずの、文科省が標榜する「理科の見方・考え方」には、
 「自然を愛する心情」のための具体的な姿(教材)が示されていない
 と指摘します。

 その上で、著者は「6-2.理科の見方における環境の位置づけ」について、
 以下ように説明します
 (なお、私の理解では、文科省(及び著者)は、
  「理科の見方・考え方」を
  「理科の見方」「理科の考え方」の2つに分けて考えているようです)。

 文科省は「理科の見方」をエネルギー・粒子・生命・地球の観点で整理しているが、
 「科学的な見方」にウェートが置かれ、
 「自然を愛する心情」の要素がが含まれていない。
 
 そこで、著者は、「理科の見方」に、
 「自然を愛する心情」に直結する自然科学的枠組みとしての「環境」概念を加える
 ことを提唱します。

 その理由として、著者は、以下のように考えているように思いました。

 「日本人は昔から自然環境に恵まれ自然に親しみ愛でることから喜びを享受」し、
 「喜び」と「愛」は一体であり、
 これらがかけがえのないことであるとの認識の上で、理科教育では、
 「目標として「自然を愛する心情」を養うことが受け継がれてきた」が、
 一方では、その自然環境に対する日本人の問題意識は薄かった。

 そこで、著者は、「理科の見方」に、エネルギー・粒子・生命・地球に加えて、
 自然環境に対する「科学的な見方」を組み込むことで、
 「自然を愛する心情」を養うことに繋がる「理科の見方」を構成できると考えます。

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 論旨Bは、まずは、以上の問題提起に留まっており、
 私としては、著者のさらなる深堀を期待したいというところです。

 私は、論考をさらに深堀するうえで、
 以下の事項を考察することが不可欠ではないかと思っています。

「自然を愛する心情」とは何か?
「日常の現象」とは何か?
「自然を愛する心情」⇔「日常の現象」⇔「科学的な見方」の関係は?

 これらについて、次回、私の持論をまとめてみたいと思います。

posted by Dausuke SHIBA at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育